橘逸勢 (たちばなのはやなり)
【概説】
平安時代前期の貴族であり、弘仁・貞観文化を代表する能書家。遣唐使として空海や最澄らとともに唐へ渡り、帰国後は嵯峨天皇・空海と並んで「三筆」の一人と称された。しかし晩年、藤原氏の他氏排斥事件である承和の変に連座して流罪となり、配流の途上で悲運の死を遂げた。
遣唐留学生としての渡海と唐での交流
橘逸勢は、奈良時代に権勢を振るった橘諸兄を祖とする名門・橘氏の出身である。804年(延暦23年)、第18次遣唐使の留学生(るがくしょう)に選ばれ、空海や最澄らと同じ船団で唐へと渡った。唐の都・長安では語学の習得に苦労したと伝えられるが、書や琴の才能には非常に秀でていた。唐の著名な文人である柳宗元(りゅうそうげん)が、帰国する逸勢に贈った送別詩「送橘秀才帰国詩」が残されており、彼が唐の知識人社会において一定の交流を持ち、高く評価されていたことがうかがえる。806年(大同元年)に帰国したが、政治的な後ろ盾が弱かったこともあり、帰国後の官途は決して恵まれたものではなかった。
弘仁・貞観文化を彩る「三筆」の一人
平安時代初期は、嵯峨天皇の庇護のもとで唐の文化が積極的に取り入れられた弘仁・貞観文化の全盛期であった。この時代、書道においても唐の書風(特に王羲之の書法)が尊ばれ、橘逸勢は嵯峨天皇、空海とともに「三筆」と並び称された。彼の書は、力強さと自由闊達さを兼ね備えた独特の風格を持っていたとされる。逸勢の確実な真蹟はほとんど残っていないが、彼の手によるものと伝えられる『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)が、その優れた書風を今日に伝える代表的な作品として知られている。
承和の変による失脚と悲劇の最期
政治的には不遇であった逸勢だが、晩年に平安時代前期の重大な政争に巻き込まれることとなる。842年(承和9年)、最高権力者であった嵯峨上皇が崩御すると、その直後に承和の変(じょうわのへん)が勃発した。逸勢は、親友の伴健岑(とものこわみね)とともに、皇太子である恒貞親王(淳和天皇の皇子)を奉じて東国へ逃れようと謀反を企てた嫌疑をかけられたのである。この事件は、自らの甥である道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子に立てようと画策した藤原良房による、有力な他氏(橘氏や伴氏)を排斥するための陰謀であったと歴史的に評価されている。
御霊信仰と後世への影響
過酷な拷問を受けた逸勢は罪状を否認し続けたが、最終的に姓を剥奪されて「非人」という卑称を与えられ、伊豆国への流罪に処された。高齢で疲弊しきっていた逸勢は配流地へ向かう護送の途上、遠江国板築(現在の静岡県浜松市)で無念の客死を遂げた。彼の悲劇的な死は都の人々に深い同情と恐怖をもたらした。のちに疫病や災害が相次ぐと、無実の罪で死んだ逸勢の怨霊の仕業であると噂されるようになり、彼は御霊信仰(ごりょうしんこう)の対象となった。現在でも、京都の上御霊神社などで「八所御霊」の一柱として祀られており、政治的敗者から神へと昇華された平安時代の精神史を語る上で欠かせない人物である。