仁明天皇 (にんみょうてんのう)
810年〜850年
【概説】
嵯峨天皇の第二皇子で、平安時代初期に在位した第54代天皇。その治世下で発生した承和の変を契機に皇太子を交代させ、藤原北家の台頭を決定づけた。唐風文化が和風化へと向かう過渡期にあたる承和文化の主導者でもある。
承和の変と藤原良房の台頭
仁明天皇の治世における最大の政治的画期は、842年(承和9年)に起きた承和の変である。当時、皇太子には嵯峨上皇の意向により、淳和上皇の皇子である恒貞親王が立てられていた。しかし、嵯峨上皇が崩御した直後、橘逸勢や伴健岑らが恒貞親王を奉じて東国へ赴こうとしたとされる謀叛計画が発覚する。この事件の結果、恒貞親王は皇太子を廃され、代わりに仁明天皇の第一皇子である道康親王(のちの文徳天皇)が新たな皇太子に立てられた。
この政変の背景には、自身の血統への皇位継承を望む仁明天皇の意向と、道康親王の叔父であり、将来の外戚関係の構築を目論んだ中納言・藤原良房の暗躍があったとされる。事件後、藤原良房は大納言へと昇進し、のちの藤原北家による摂関政治の基礎が築かれることとなった。
承和文化の展開と治世の特色
仁明天皇の時代は、嵯峨・淳和期の積極的な唐風化から、やがて国風文化へと移行していく過渡期にあたり、独自の宮廷文化が花開いた。この時期の文化は元号にちなんで承和(じょうわ)文化と呼ばれる。
仁明天皇自身が書道や雅楽に優れた教養人であり、宮廷では漢詩文だけでなく和歌の地位も向上し始め、宮廷儀式の細礼化が進められた。また、838年(承和5年)には小野篁らを乗せた最後の遣唐使(実質的に渡唐した最後の使節)が派遣され、大陸の最新の仏教宗派や密教経典、薬物などがもたらされた。この治世は、強権的な政治改革こそ少なかったものの、律令国家の儀礼と文化が洗練された一時代として評価されている。