摂政

天皇が幼少の時や女性の時に、天皇の代理として国政を担う官職を何というか。
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摂政

【概説】
天皇が幼少、あるいは女性である場合に、天皇に代わって政務を総覧し決裁を行う役職。
平安時代に藤原北家がこの官職を世襲して権力を掌握し、のちに置かれた関白とともに「摂関政治」という独自の政治形態を確立する基盤となった。

皇族による補佐から始まった古代の摂政

日本の歴史上、天皇を補佐し政務を代行する役割は古くから存在した。飛鳥時代に推古天皇の治世下で聖徳太子(厩戸皇子)が国政を担ったのが、実質的な摂政の初例とされている。また、斉明天皇に対する中大兄皇子(のちの天智天皇)のように、飛鳥・奈良時代における摂政は、主に皇太子などの有力な皇族(皇親)が就任し、女性天皇や病弱な天皇を政務面から支える役割を果たしていた。

しかし、当時の摂政は律令制に規定された正式な官職ではなく、あくまで天皇の血縁者が大王家の首長権を代行する一時的な措置という性格が強かった。

藤原良房と「人臣摂政」の成立

平安時代前期の9世紀半ば、摂政の性質は大きく変容する。858年、わずか9歳の清和天皇が即位した際、天皇の外祖父(母方の祖父)にあたる藤原良房が政務を代行した。のちに866年の応天門の変に際して、良房は正式に摂政の詔を受け、これが皇族以外の臣下が摂政に就任した人臣最初の摂政となった。

これを契機として、藤原北家は自らの娘を天皇の后妃とし、生まれた皇子を天皇に即位させて自分は外祖父として摂政に就任するという、強力な権力基盤を構築していくこととなる。摂政は律令法典に定めのない令外官(りょうげのかん)であったが、天皇の権限を全面的に代行する絶大な権力を有し、太政官の筆頭として国政を掌握した。

「関白」の設置と摂関政治の最盛期

天皇が成長して成人となると、摂政は不必要となるため退任するのが原則であった。しかし、良房の養子である藤原基経は、光孝天皇・宇多天皇の治世において、天皇が成人したのちも引き続き政務を補佐する役割を担った。これが関白(かんぱく)の起源である。

摂政は天皇に代わって直接政務を決裁する権限を持つ(天皇と同等の権力を行使する)のに対し、関白は天皇に奏上される文書を事前に閲覧し(関り白す)、意見を述べる役職であるという違いがある。平安時代中期以降、藤原北家はこの「天皇が幼少・女性の時は摂政、成人後は関白」という体制を常設化させ、11世紀前半の藤原道長・頼通父子の時代に摂関政治は最盛期を迎えた。

中世における摂家への定着と実権の喪失

11世紀後半に白河上皇による院政が始まると、天皇家の家長である治天の君が実権を握るようになり、外戚関係を前提とした摂政・関白の政治的権力は次第に低下していった。さらに鎌倉時代に入り武家政権が成立すると、摂政は国政を動かす実権を失い、朝廷内における名誉的な最高位という位置づけに変わっていった。

同時に、藤原氏の嫡流は近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家(五摂家)に分裂し、これ以降、幕末に至るまで摂政・関白はこの五家から持ち回りで任じられる世襲の官職として存続し続けた。

近現代の皇室典範における摂政

明治維新を経て近代国家が成立すると、1889年(明治22年)に制定された旧皇室典範によって、臣下が就任する旧来の摂政・関白制度は廃止された。代わって、天皇が未成年である場合、あるいは重い疾患などの理由で国事行為を自ら行えない場合に、皇族のみが天皇の職務を代行する近代的な摂政制度が法制化された。

この規定に基づき、1921年(大正10年)には病弱であった大正天皇に代わり、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政に就任している。現在の日本国憲法および現行の皇室典範においてもこの制度は引き継がれており、皇族による摂政が置かれたときは、天皇の名でその国事に関する行為を行うことが明確に定められている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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