宇多天皇
【概説】
平安時代前期に在位した第59代天皇。一度は臣籍降下して源氏を名乗るも皇籍に復帰して即位し、藤原氏の圧力を排しながら天皇親政を目指した君主。藤原基経の死後は摂関を置かず、菅原道真を重用して「寛平の治」と呼ばれる親政を行った。
臣籍降下からの異例の即位
宇多天皇は、光孝天皇の第七皇子として生まれた。当初は源定省(みなもとのさだみ)と名乗り、皇位継承とは無縁の立場として一時は臣籍降下し、源氏の姓を賜っていた。しかし、父である光孝天皇を擁立した実力者・政所執事(のちの関白)藤原基経との関係や、次代の皇位継承をめぐる政治的思惑から、光孝天皇の危篤に際して急遽皇族に復帰。親王宣下を経て皇太子に立てられ、同年の光孝天皇の崩御に伴い即位することとなった。一度臣籍に下った者が皇位に就くことは日本の歴史上極めて異例であり、独自の政治的立場を形作る要因となった。
阿衡の紛議と藤原氏への対抗
即位直後の887年(仁和3年)、宇多天皇は藤原基経に対し、引き続き政務を委ねる趣旨の勅書を送った。しかし、その勅書に記された「宜しく阿衡(あこう)の任を以て、己が職とせよ」という表現に対し、基経は「阿衡とは中国の古典において名ばかりの職であり、実権がない」と言いがかりをつけ、一切の政務を放棄した。これが阿衡の紛議である。半年以上に及ぶ政務停滞の末、宇多天皇は勅書を起草した学者・橘広相を処分せざるを得なくなり、藤原氏の権勢の強さを思い知らされる結果となった。この手痛い経験が、後の藤原氏を抑制する政治姿勢へとつながっていく。
菅原道真の登用と「寛平の治」
891年(寛平3年)に藤原基経が没すると、宇多天皇は後任の摂政・関白を置かず、天皇主導の親政を開始した。この時期の政治は後に寛平の治と称えられる。天皇は藤原氏一強に対抗するため、学問的才能に秀でた中流貴族の菅原道真を大抜擢し、側近として国政の改革にあたらせた。894年には道真の建議を容れて遣唐使の廃止を決定したほか、私営田の制限や格式の編纂など、律令制の再建に向けた積極的な政策を展開した。897年に第一皇子の醍醐天皇へ譲位する際にも、道真と藤原時平の双方を大臣として均衡を保つよう遺訓(寛平御遺誡)を残し、藤原氏による権力独占を阻む礎を築いた。