菅原道真 (すがわらのみちざね)
【概説】
平安時代前期の学者・文人であり、公卿として国政を担った政治家。宇多天皇に重用されて右大臣にまで昇ったが、藤原時平の讒言により大宰府へ左遷されて配所で没した。死後は怨霊として恐れられ、のちに学問の神(天神)として広く信仰を集めることとなった。
紀伝道の家系と宇多天皇による抜擢
菅原道真は、祖父の清公、父の是善と三代にわたり文章博士(もんじょうはかせ)を務めた紀伝道(歴史・漢文学)の家系の出身である。幼少期より詩歌に優れた才能を見せ、若くして科挙にあたる方略試に合格し、学者としての最高位である文章博士となった。
道真が政治家として異例の出世を遂げる契機となったのが、宇多天皇による重用である。当時、藤原北家が摂政・関白として権力を掌握しつつあった(阿衡の紛議など)なかで、宇多天皇は親政(寛平の治)を目指し、藤原氏の権力を牽制するための対抗馬として、家格にとらわれず学識に優れた道真を側近として抜擢した。道真は蔵人頭から参議、さらには権大納言へと昇進を重ね、国政の要職を歴任していくこととなる。
遣唐使の白紙撤回と国風文化への影響
道真の政治的業績として最も著名なのが、894(寛平6)年の遣唐使の白紙撤回(停止)の進言である。当時、道真自身が遣唐大使に任命されていたが、唐の国内が黄巣の乱などで衰退し治安が悪化していたこと、また航海の危険性や莫大な費用に見合う利益が薄れていることを理由に、遣唐使の派遣見送りを建議した。
宇多天皇はこれを受け入れ、結果として遣唐使は派遣されることなく、907年の唐の滅亡によって正式にその歴史に幕を下ろすこととなった。この決断は、日本の外交方針が転換点に達していたことを示すと同時に、それまで唐の模倣に偏重していた文化が日本独自の発展を遂げる契機となり、後の国風文化が開花する重要な歴史的前提となった。
昌泰の変と大宰府への左遷
宇多天皇が醍醐天皇に譲位した後も、道真は引き続き重用され、899年にはついに右大臣にまで昇り詰めた。しかし、中下級貴族出身の道真が朝廷の最高幹部に列したことは、左大臣であった藤原時平をはじめとする旧来の特権貴族たちの強い反発を招いた。
901(昌泰4)年、時平らは「道真が醍醐天皇を廃し、自身の娘婿である斉世親王(宇多上皇の皇子)を皇位に就けようと謀っている」と醍醐天皇に讒言した。若き醍醐天皇はこれを真に受け、道真は右大臣を罷免され、大宰府の大宰員外帥(だざいのいんがいそち)という事実上の流罪に処された。これを昌泰の変と呼ぶ。道真は無実を訴えながらも京へ戻ることは叶わず、903年に大宰府の配所で失意のうちに生涯を閉じた。
怨霊から天神(学問の神)への昇華
道真の死後、都では疫病が流行し、醍醐天皇の皇子が次々と早世したほか、清涼殿に落雷があり、道真の左遷に関与した藤原時平やその関係者が相次いで変死するなどの異変が起こった。当時の人々はこれを道真の怨霊による祟りであると恐れ戦いた。
朝廷は道真の怨霊を鎮めるため(御霊信仰)、道真の罪を赦免し、贈位を行うとともに、北野の地に社殿を造営して神として祀った。これが北野天満宮の起源である。当初は恐ろしい怨霊(天神)として祀られた道真であったが、時代が下るにつれて彼が生前に優れた学者・文人であった側面がクローズアップされるようになり、中世以降は詩歌や書道の神、そして現代に至るまで「学問の神様」として全国の天満宮(天満宮・天神)で広く信仰を集め続けている。