藤原道隆 (ふじわらのみちたか)
953年〜995年
【概説】
平安時代中期の公卿であり、摂政・太政大臣を務めた藤原兼家の長男。父の跡を継いで関白・摂政に就任し、娘の定子を一条天皇の中宮とすることで「中関白家」の栄華を築いた。しかし、自身の病死により、権力闘争を経て政権は弟の道長へと移行することとなった。
「中関白家」の形成と華麗なる後宮文化
藤原道隆は、藤原北家の権力を確立した藤原兼家の嫡男として生まれた。永祚2年(990年)、父の死に伴い関白(のちに摂政)の地位を継承し、政権を掌握した。道隆は、自らの家系が摂関家を世襲することを目論み、娘の藤原定子を一条天皇の中宮に立てた。これにより、天皇の外戚として権力を固めることに成功する。
定子の後宮には清少納言などの才能ある女房たちが仕え、平安女流文学の最高峰ともいえる華やかな宮廷文化が花開いた。道隆とその一族は、父・兼家の家系と弟・道長の家系の間に位置する摂関家として、のちに中関白家(なかのかんぱくけ)と呼ばれる全盛期を現出した。
強引な権力継承の試みと中関白家の没落
道隆は自らの後継者として、嫡男の藤原伊周(これちか)を急速に昇進させ、若くして内大臣に据えた。しかし、この強引な人事引き上げは、実力派の公卿であった叔父の藤原実資や、道隆の弟である藤原道兼、藤原道長らの反発を招くこととなった。
長徳元年(995年)、大酒飲みであったことが災いして糖尿病(飲水病)を悪化させた道隆は、伊周の後事を案じながら43歳で病死した。道隆の死後、関白を継いだ道兼もすぐに病死したため、政権を巡って伊周と道長が激しく対立した。結果、伊周らは長徳の変によって左遷され、中関白家は没落。権力は弟の道長へと移り、藤原氏の全盛期(御堂流)へと繋がっていくこととなった。