LT貿易
【概説】
1962年に日本と中華人民共和国の間で合意された、国交正常化前の半官半民による総合貿易。日本の高碕達之助と中国の廖承志が署名した「日中総合貿易に関する覚書」に基づき、両者のイニシャル(LとT)をとって名付けられた。政治と経済を切り離す「政経分離」の方針のもと、冷戦下における日中間の事実上のパイプ役を果たした。
冷戦下の日中関係と貿易再開の背景
1950年代、日本と中華人民共和国(以下、中国)の間では民間貿易協定に基づく取引が行われていたが、1958年に長崎市で発生した長崎国旗事件(右翼青年が中国の国旗を引きずり下ろした事件)を機に、中国側は日本との貿易を全面的に停止した。当時、日本はアメリカとの安全保障条約(日米安保条約)の改定を進めており、中国側は東アジアにおける日米同盟の強化を警戒し、対日姿勢を硬化させていたのである。
こうした冷え切った関係に変化が訪れたのは、1960年に日本で成立した池田勇人内閣のもとであった。池田首相は「所得倍増」を掲げ、経済成長を重視する観点から中国との経済関係の修復を模索した。一方の中国側も、中ソ対立の激化によってソ連からの経済支援が途絶えたため、新たな技術やプラントの導入先として日本との経済的結びつきを必要としていた。こうして、政治的対立を棚上げして経済的交流を復活させる「政経分離」の原則のもと、新たな貿易ルートの開拓が進められることとなった。
LT貿易の仕組みと準政府間ルートとしての機能
1962年11月、元通商産業大臣の高碕達之助が訪中し、中国のアジアアフリカ団結委員会主席であった廖承志との間で「日中総合貿易に関する覚書」が調印された。この貿易は双方の頭文字をとってLT貿易と呼ばれ、翌1963年から5か年計画としてスタートした。
LT貿易は形式上こそ民間貿易であったが、実際には両国の事実上の政府窓口として機能した。東京と北京にそれぞれ「連絡事務所」が設置され、駐在員の相互派遣やビザの査証業務なども行われた。取引内容も、日本からの化学肥料や鉄鋼、プラント設備(倉敷レイヨンのビニロンプラントなど)の輸出と、中国からの石炭、鉄鉱石、大豆などの輸入という、長期契約に基づく総合的な相互互恵の形がとられた。これにより、国交のない日中両国間に安定した太い経済パイプが形成されることとなった。
その後の展開と歴史的意義
LT貿易は、1960年代半ばに中国で始まったプロレタリア文化大革命による政情混乱や、日本の佐藤栄作内閣の親台・対中強硬姿勢により一時的に危機に瀕した。1967年に5カ年の期限を迎えた後は、1968年に「日中覚書貿易」(MT貿易、Memorandum Tradeの略)へと名称を変え、単年度ごとの更新形式で継続された。
LT貿易(および後のMT貿易)の最大の意義は、1972年の日中国交正常化に向けた実質的な地ならしを行った点にある。公式な国交がない「不正常」な時代であっても、このルートを通じて人的・経済的な交流が維持され、双方の信頼関係がつなぎ止められた。これが、後の田中角栄内閣による電撃的な国交正常化交渉を成功させる重要な外交的遺産となったのである。