平和共存
【概説】
第二次世界大戦後の冷戦期において、ソビエト連邦の指導者フルシチョフが提唱した、体制の異なる資本主義国と社会主義国が戦争を避けて平和的に共存・競争を図るという外交路線。従来の東西対立を緩和させ、世界的な緊張緩和(デタント)をもたらした。日本においては、鳩山一郎内閣による日ソ国交回復や国際連合加盟を実現させる重要な歴史的背景となった。
スターリン批判と「平和共存」路線の提唱
1953年のスターリンの死去に伴い、ソビエト連邦の実権を握ったフルシチョフは、従来の対米強硬路線を修正した。1956年のソ連共産党第20回大会において、フルシチョフはスターリンの独裁体制を徹底的に批判(スターリン批判)すると同時に、資本主義陣営との戦争は不可避ではないとする平和共存路線を公式に提起した。これにより、東西両陣営の間に一定の対話の道が開かれ、一時的な緊張緩和(「雪どけ」と呼ばれる最初のデタント)がもたらされることとなった。
日本外交への影響と日ソ国交回復
この国際的な緊張緩和の流れは、日本の戦後外交、特に1950年代半ばの政治動向に決定的な影響を与えた。当時、吉田茂内閣の対米一辺倒の外交からの脱却を図り、「自主外交」を掲げていた鳩山一郎内閣は、このソ連の外交方針の転換を国交正常化の好機と捉えた。ソ連側もアジアにおける平和共存をアピールするため日本との関係改善に積極的な姿勢を示したため、両国間の交渉が一気に進展した。その結果、1956年10月に日ソ共同宣言が調印され、両国間の国交が回復した。この国交回復によってソ連が日本の国連加盟に反対しなくなった(拒否権を行使しなくなった)ことで、同年12月に日本の国際連合加盟が実現し、日本は国際社会への完全な復帰を果たすことができた。
共産圏の分裂と東アジア情勢への波紋
一方で、フルシチョフが打ち出した米国との平和共存路線は、社会主義陣営内部に深刻な亀裂を生じさせる原因ともなった。アメリカとの徹底抗戦を主張し、アジアにおける革命の輸出を目指していた中華人民共和国(毛沢東政権)は、この路線を妥協的であるとして激しく批判した。これにより、1950年代末から1960年代にかけて中ソ対立が激化することとなる。この共産圏の分断は、隣国である中国・ソ連の双方と向き合う必要のあった日本の戦後外交(のちの日中国交正常化など)のあり方を大きく規定することとなった。