非同盟運動 (ひどうめいうんどう)
【概説】
東西冷戦期において、米ソ二大陣営の軍事同盟に加わらず、平和共存と植民地主義反対、民族自立を目指した発展途上国による国際運動。1961年の第1回首脳会議を契機に、アジア・アフリカなどの「第三世界」が国際政治における新たな勢力として結束する基礎となった。
「第三世界」の台頭と運動の発足
第二次世界大戦後の国際社会は、アメリカを中心とする西側陣営と、ソビエト連邦を中心とする東側陣営による東西冷戦の激化に直面していた。こうした中、戦後に植民地支配から独立を果たしたアジアやアフリカの新興諸国は、二大陣営の権力政治に巻き込まれることを拒否し、自国の主権維持と経済的自立を模索し始めた。その記念碑的ステップとなったのが、1955年にインドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)であり、ここで提唱された平和十原則が運動の土台となった。
その後、インドのネルー、エジプトのナセル、ユーゴスラビアのチトらの主導により、1961年にユーゴスラビアのベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議が開催され、非同盟運動が正式に発足した。彼らは、核実験の禁止や軍縮、植民地主義の完全廃止を訴え、国連などの国際舞台において「第三世界」としての存在感を急速に高めていった。
戦後日本外交の葛藤と非同盟運動
昭和時代の日本外交において、この非同盟運動との距離感は極めて複雑な課題であった。1952年のサンフランシスコ平和条約発効によって独立を回復した日本は、同時に日米安全保障条約を締結し、西側陣営の一員として歩み始めていた。そのため、1955年のバンドン会議にはアジアの一員として参加(政府代表・高碕達之助)したものの、その後に本格化した非同盟運動には、軍事同盟否定という基本原則との整合性が取れず、正式に加盟することはできなかった。
日本政府は、アジア・アフリカ諸国との友好関係や経済協力を重視しつつも、外交の基軸である日米同盟を最優先せざるを得ず、非同盟運動に対しては「オブザーバー」や「ゲスト」といった限定的な立場での関与にとどめざるを得ないという、冷戦下における独自の外交的ジレンマを抱え続けた。
日本国内の世論と「非武装中立論」への影響
一方で、非同盟運動が掲げる「軍事同盟に加わらず、平和共存を目指す」という理念は、日本国内の思想空間や野党勢力に深い影響を与えた。特に日本社会党などが唱えた非武装中立論は、冷戦の二極対立から距離を置こうとする非同盟運動の思想と強く共鳴するものであった。
当時、日米安保条約の改定や自衛隊の存在をめぐって国論が激しく二分される中、非同盟運動の広がりは、政府の「親米一辺倒」の外交方針を批判し、平和主義や独自の自主外交を志向する言論人や知識人、平和運動家たちにとって、強力な国際的裏付けとして機能したのである。