北爆 (ほくばく)
【概説】
ベトナム戦争中の1965年からアメリカ軍が開始した、北ベトナムに対する大規模かつ組織的な空爆作戦。東アジアにおける冷戦の激化を象徴する軍事行動であり、日米安保体制下の日本社会における反戦運動の勃興や、当時の佐藤栄作政権の外交政策にも決定的な影響を与えた事件。
北爆の背景とベトナム戦争の泥沼化
1960年代初頭、南ベトナムにおける共産主義勢力の伸長と政情不安に対し、アメリカのケネディ政権およびその後を継いだジョンソン政権は軍事介入を本格化させた。1964年8月、アメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム魚雷艇から攻撃を受けたとするトンキン湾事件が発生。これを機にジョンソン大統領は議会から軍事行動の全権委任を得て、1965年2月より北ベトナムへの組織的な空爆、いわゆる「北爆」(ローリング・サンダー作戦など)を開始した。
北爆の主たる目的は、北ベトナムから南ベトナムの反政府武装勢力(南ベトナム解放民族戦線)への補給路(ホーチミン・ルート)を遮断し、北ベトナム政府の継戦意志をくじくことにあった。しかし、最新鋭兵器を用いた猛烈な空爆にもかかわらず、ゲリラ戦を展開する北ベトナム側を屈服させることはできず、戦況は泥沼化の一途をたどることとなった。
日本社会への衝撃と「ベ平連」の台頭
北爆の開始は、戦後民主主義のもとで平和主義が定着していた日本社会に強い衝撃を与えた。当時、日本は日米安全保障条約を締結しており、横須賀や佐世保、そして当時依然としてアメリカの施政権下にあった沖縄の米軍基地が、ベトナム出撃や補給・修理の直接的な拠点として機能していた。このため、日本が間接的に「加害者」として戦争に加担しているという危機感が国民の間で急速に高まった。
こうした世論を背景に、従来の既成政党や労働組合の枠組みを超えた、市民による自発的な新しい平和運動が誕生した。その代表例が、作家の小田実や開高健らを中心に結成された「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)である。ベ平連は、デモやアメリカの新聞への意見広告掲載、米軍脱走兵の亡命支援など多角的な運動を展開し、日本の市民運動史に大きな足跡を残した。
佐藤栄作政権の苦渋の選択と日米外交
時の内閣総理大臣・佐藤栄作は、日米同盟を外交の基軸とし、アメリカのベトナム政策を一貫して支持・擁護する立場をとった。ここには、当時の最重要外交課題であった沖縄返還を成し遂げるため、アメリカ政府との強固な信頼関係を維持・優先しなければならないという現実的な政治判断が存在した。
しかし、テレビなどの報道を通じて空爆の惨状がリアルタイムで茶の間に届くなか、政府の「対米追随」姿勢に対する世論の反発は激化。1967年には、佐藤首相の訪米阻止を叫ぶ新左翼系学生と機動隊が激突する「羽田事件」が発生するなど、社会的な緊張は極限に達した。このように北爆は、一国平和主義に揺れる戦後日本の針路と、日米同盟の倫理性を厳しく問い直す契機となったのである。