鈴木善幸内閣

大平内閣の後に成立し、第2次臨時行政調査会(土光臨調)を設置して行政改革路線のレールを敷いた内閣は誰の内閣か?
カテゴリ:
重要度
★★

鈴木善幸内閣 (すずきぜんこうないかく)

1980~1982年

【概説】
大平正芳首相の急死に伴う衆参同日選挙での自由民主党大勝を受けて発足した、昭和後期の内閣。首相の鈴木善幸は「和の政治」をスローガンに掲げ、党内融和を図りながら、オイルショック以降に悪化した国家財政の立て直しを目指した。特に「増税なき財政再建」を掲げて第二次臨時行政調査会(第二臨調)を立ち上げ、のちの行政改革の路線を決定づけたことで知られる。

「ハプニング解散」から「和の政治」の誕生へ

鈴木善幸内閣の発足に先立ち、自民党内では主流派(大平正芳・田中角栄ら)と非主流派(福田赳夫・三木武夫ら)の激しい抗争、いわゆる「四十日抗争」が続いていた。1980年5月、社会党が提出した内閣不信任決議案に対し、非主流派が本会議を欠席したことで不信任案が可決される。これを受けて大平首相は衆議院を解散し、日本憲政史上初となる衆参同日選挙に踏み切った(ハプニング解散)。

しかし、選挙期間中に大平首相が急死する事態が発生する。これにより同情票が集まったことや、党内が一時的に結束したことで、自民党は衆参両院で圧倒的な過半数を獲得する大勝を収めた。大平の後継をめぐり、特定の派閥領袖ではないものの、党務に明るく調停能力に優れた大平派の鈴木善幸が急浮上し、全会一致で後継総裁に選出された。鈴木は自らの政治姿勢を「和の政治」と称し、激しい党内抗争に疲弊した自民党内の融和を図った。

「増税なき財政再建」と第二臨調の足跡

鈴木内閣の国内最大の課題は、石油危機(オイルショック)後の景気対策として発行され続けていた赤字国債の削減と、それに伴う財政再建であった。鈴木は、増税によって財政を賄うのではなく、徹底した行政の簡素化・合理化による歳出削減を目指す「増税なき財政再建」を掲げた。

この目標を達成するため、1981年に第二次臨時行政調査会(第二臨調)を設置し、会長に元経団連会長の土光敏夫を起用した。土光は「土光臨調」と呼ばれたこの組織を率い、中央省庁の整理、国鉄・電電公社・専売公社の三公社の民営化などの抜本的な改革を答申した。この答申に基づく行政改革路線は、鈴木の後に首相となる中曽根康弘内閣へと引き継がれ、新自由主義的な改革として実を結ぶことになる。また、鈴木内閣は1982年度予算において「マイナス・シーリング(概算要求の基準を前年度より引き下げること)」を導入するなど、緊縮財政の基調を確立した。

外交的混迷と唐突な退陣表明

「和の政治」により国内政治では一定の安定を見た鈴木内閣であったが、外交面においては不慣れさからくる混乱が目立った。1981年5月の日米首脳会談後の共同声明において、日米関係を初めて「同盟関係」と表現したことに対し、帰国後の記者会見で鈴木は「同盟関係に軍事的な意味合いは含まれない」と発言した。これが外務省の見解と食い違ったことで、日米関係に不協和音が生じ、責任を取る形で伊東正義外相が辞任する事態へと発展した。

また、1982年には日本の歴史教科書の記述をめぐり、文部省の検定で「侵略」が「進出」に書き換えられたと報じられたことから、中国や韓国との間で外交問題(第一次教科書問題)が勃発した。鈴木内閣は、宮沢喜一内閣官房長官による談話(宮沢談話)を発表し、教科書検定において近隣諸国への配慮を行うとする「近隣諸国条項」を設けることで、事態の収支を図った。

このような外交上のつまずきや、財政再建の目標(「1984年度までの特例公債ゼロ」)の達成が困難となったことから、自民党内での鈴木の求心力は徐々に低下していった。1982年10月、次期総裁選での再選が確実視されていたにもかかわらず、鈴木は自民党内の融和と世代交代を理由に、突如として総裁選への不出馬(退陣)を表明した。後継には、中曽根康弘が就任した。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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