新冷戦

1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻や、アメリカのレーガン政権の軍拡路線などによって、1980年代前半に米ソの緊張が再び激化した状態を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
新冷戦(Wikipedia)

新冷戦

1970年代末〜1980年代末

【概説】
1970年代末のソ連によるアフガニスタン侵攻などを契機に、再び激化した米ソ間の極めて高い緊張状態。1970年代を通じて進展したデタント(緊張緩和)の流れが崩壊し、軍拡競争が再燃した。日本においては、西側陣営の一員としての防衛義務や日米同盟の強化を強く求められ、戦後外交・安全保障政策の大きな転換点となった。

デタントの崩壊と「新冷戦」の到来

1970年代、米ソ両国は戦略兵器制限交渉(SALT)を進めるなど、冷戦の対立を緩和させるデタント(緊張緩和)の時代を迎えていた。しかし、1979年12月にソ連がアフガニスタン侵攻に踏み切ったことで事態は一変する。アメリカをはじめとする西側諸国はこれに猛反発し、デタントは完全に崩壊した。

さらに1981年、アメリカで「強いアメリカの復活」を掲げるロナルド・レーガン大統領が就任すると、対ソ強硬姿勢が一段と強まった。レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と呼び、SDI(戦略防衛構想、通称スター・ウォーズ計画)を推進するなど、軍事的な優位を確保するための軍拡競争を再開した。この一連の緊張状態が「新冷戦(第二の冷戦)」と呼ばれる時代である。

日本もこの緊迫した国際情勢と無縁ではいられなかった。大平正芳内閣はソ連のアフガニスタン侵攻を強く非難し、経済制裁を実施した。その象徴的な出来事が、1980年に開催されたモスクワオリンピックへのボイコットである。日本政府はアメリカの呼びかけに同調し、日本オリンピック委員会(JOC)に圧力をかけて不参加を決定させた。これは日本のスポーツ界のみならず、国民に対しても冷戦の再燃を強く意識させる出来事となった。

日本外交の転換と日米「同盟関係」の明文化

新冷戦の激化は、日本の安全保障政策と外交路線のあり方に根本的な見直しを迫った。それまで日本は、吉田茂以来の「軽軍備・経済重視」の路線を基本とし、直接的な軍事対立への関与を避ける傾向にあった。しかし、アメリカからの防衛力増強と西側陣営としての責任分担の要求は日増しに強まっていった。

1981年、鈴木善幸首相は訪米時の日米共同声明において、戦後の日米関係で初めて「同盟関係」という文言を公式文書に用いた。鈴木首相は帰国後、この「同盟」に軍事的な意味合いは含まれないと釈明したが、日米の軍事一体化を懸念する世論や野党、外務省内で大きな摩擦が生じ、伊東正義外相が辞任する事態に発展した。この出来事は、日本が冷戦下における安保体制をどのように引き受けるべきかという、激しい国内論争を引き起こすこととなった。

中曽根内閣の「戦後政治の総決算」と冷戦の終結

新冷戦期における日本の防衛・外交政策を最も推し進めたのが、1982年に発足した中曽根康弘内閣である。中曽根首相は「戦後政治の総決算」を掲げ、レーガン大統領との間に「ロン・ヤス」と呼ばれる強固な個人的信頼関係を構築した。中曽根は日本を「日本列島における不沈空母」と表現し、ソ連の脅威に対する防衛協力を惜しまない姿勢を明確にした。

具体的には、1983年に対米武器技術供与の道を開き、それまで歴代内閣が維持してきた「武器輸出三原則」を実質的に空洞化させた。さらに1987年には、防衛費を国民総生産(GNP)の1%以内に抑えるという、1976年以来の「防衛費1%枠」を突破する予算編成を行い、西側陣営の一員としての軍事的な役割を強化した。

この激しい緊張状態は、ソ連側の経済的困窮と、1985年に登場したゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ(改革)」の進展によって対話の機運が生まれ、収束へと向かう。1989年のマルタ会談において米ソ首脳が冷戦終結を宣言したことで、新冷戦の時代も終焉を迎えたが、この時期に構築された緊密な日米軍事協力体制は、冷戦後の日本外交・安保政策の強固な基盤として引き継がれることとなった。

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最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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