グラスノスチ
【概説】
1980年代後半、ソビエト連邦のゴルバチョフ政権下でペレストロイカ(改革)の一環として推進された、言論統制の緩和と政治情報の公開を指す政策。ソ連社会の停滞打破を目指して導入されたが、結果として体制批判の噴出や民族独立運動の表面化を招き、冷戦終結およびソ連崩壊の直接的な引き金となった。日本史の枠組みにおいては昭和末期から平成初期にあたり、シベリア抑留問題の資料公開や日ソ外交の転換をもたらすなど、現代日本の対外関係にも多大な影響を与えた。
「グラスノスチ」の導入とペレストロイカ
1980年代半ば、ソビエト連邦は深刻な経済の停滞と官僚主義の腐敗に直面していた。1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、硬直化した社会主義体制の立て直しを図るべく「ペレストロイカ(改革)」を提唱した。その中核的政策の一つとして推進されたのが、ロシア語で「情報公開」や「公開性」を意味するグラスノスチである。
グラスノスチは、スターリン時代から長らく続いていた強権的な情報統制や検閲体制を緩和し、政治や社会の抱える問題を国民に対して明らかにする目的を持っていた。これにより、過去の歴史的暗部の見直し(スターリン批判の再開)や、サハロフ博士に代表される反体制派の釈放、さらにはメディアによる政府批判が容認されるという、ソ連史上かつてない言論空間の自由化がもたらされた。
チェルノブイリ原発事故と情報公開の加速
グラスノスチが実質的な転換点を迎えたのは、1986年4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故である。ソ連当局は当初、事態の深刻さを隠蔽しようと試みたが、放射能汚染が西欧諸国にまで及んだことで国際的な非難を浴びた。この失態を機に、ゴルバチョフ政権は「情報の隠蔽が国家の信用を致命的に失墜させる」という事実を痛感し、報道の自由化や情報公開の徹底をより一層推し進めることとなった。
冷戦終結とソ連崩壊への道程
グラスノスチの進展は、ソ連国内のみならず東側陣営全体に劇的な変化をもたらした。言論の自由化は、長年抑圧されてきた体制への不満を一気に噴出させ、バルト三国などを中心に民族独立運動を激化させた。1989年には東欧諸国で次々と民主化運動が連鎖する東欧革命が起こり、同年末には地中海のマルタ島で行われた米ブッシュ大統領とのマルタ会談において、事実上の冷戦終結が宣言された。結果として、グラスノスチはソ連を立て直すという当初の目的を超え、1991年末のソビエト連邦崩壊を引き起こす決定的な要因となったのである。
日本史的視点から見るグラスノスチの影響
日本史の枠組みにおいて、グラスノスチが推進された時代は昭和末期から平成時代の初期に該当する。東西冷戦の終結は、長らく極東における対ソ防衛の最前線にあった日本の安全保障環境に根本的なパラダイムシフトをもたらした。日ソ関係においては、ソ連の態度軟化に伴い、1991年4月にゴルバチョフがソ連の最高指導者として初めて訪日し、海部俊樹首相と会談を行った。これにより、長年の懸案であった北方領土問題の解決にむけた期待が高まったが、直後にソ連が崩壊したため、実際の領土交渉は成立したばかりのロシア連邦(エリツィン政権)へと持ち越されることとなった。
また、ソ連における情報公開の波は、第二次世界大戦後のシベリア抑留に関する歴史的文書の公開にも直結した。かつてはソ連の厚いベールに包まれていた抑留者の名簿や収容所での死亡記録などが日本側に提供されるようになり、戦後処理問題と遺族の慰霊という、日本現代史における重要な課題を前進させる大きな契機ともなったのである。