羽田孜内閣 (はたつとむないかく)
【概説】
1994年4月に成立した、新生党党首の羽田孜を首相とする非自民連立政権。細川護熙内閣の退陣を受けて発足したものの、連立与党内の不協和音から日本社会党などの離脱を招き、戦後2番目の短命政権となった。
連立与党の不和と「少数与党」での船出
1993年に成立した細川護熙非自民連立内閣は、政治改革関連法の成立を成し遂げたものの、首相自身の資金疑惑などを背景に1994年4月に突如退陣へと追い込まれた。後継首班には、連立政権の実質的な主導者であった小沢一郎(新生党代表幹事)らの主導により、副総理兼外相であった羽田孜が選出された。
しかし、羽田の首相指名の直後、新生党や日本新党、民社党などの右派・中道勢力が、日本社会党(社民党の前身)を排除するかのように衆議院の統一会派「改新」を結成した。この動きに激怒した社会党および新党さきがけは連立政権からの離脱を表明した。これにより、羽田内閣は組閣前から衆議院で過半数を割り込む少数与党政権としてスタートせざるを得なくなった。
短命に終わった政権とその歴史的影響
発足当初から基盤が極めて脆弱であった羽田内閣は、1994年度予算を成立させることを当面の優先課題とした。自民党や連立を離脱した社会党も、国民生活への影響を考慮して予算成立までは政局を動かさず、暫定的な協力関係を維持した。しかし、同年6月23日に予算が成立すると、野党となった自由民主党は直ちに内閣不信任決議案を提出した。
羽田首相は衆議院解散を模索したものの、当時の公職選挙法(小選挙区比例代表並立制)に基づく新しい選挙区(区割り)がまだ画定していなかったため、解散を断念した。その結果、不信任案の採決を待たずに内閣は総辞職を決定した。在職日数はわずか64日間(実質的な活動期間はさらに短い)であり、東久邇宮稔彦王内閣に次ぐ戦後歴代2位の短命政権となった。
羽田内閣の瓦解は、1993年以来の非自民連立政権の枠組みが事実上崩壊したことを意味していた。その後、自民党は政権奪還のために、宿敵であった日本社会党、および新党さきがけと手を結び、社会党委員長の村山富市を首相に擁立する自社さ連立政権(村山内閣)を成立させることとなった。羽田内閣の崩壊は、平成期における合従連衡の政治史の中で、政界再編をさらに加速させるターニングポイントとなった。