同時多発テロ(9.11テロ)
【概説】
2001年9月11日、イスラム過激派組織アルカイダによって引き起こされた、アメリカ合衆国における大規模なハイジャック・テロ事件。日本では当時の小泉純一郎内閣が迅速に米国支持を打ち出し、自衛隊の海外派遣を可能にする特措法を成立させるなど、戦後日本の安全保障政策に大きな転換をもたらした。
未曾有のテロ攻撃と国際社会の動揺
2001年(平成13年)9月11日、オサマ・ビンラディンを指導者とするイスラム過激派組織アルカイダのメンバーが乗っ取った4機の民間航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインタワー)やワシントンD.C.近郊の国防総省(ペンタゴン)などに次々と激突した。これにより約3000人の犠牲者が出る未曾有の大惨事となり、世界中に極めて深刻な衝撃を与えた。アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はこれを「新しい戦争」と位置づけ、アルカイダを匿っているとしてアフガニスタンのタリバン政権に対する軍事攻撃(対テロ戦争)を開始し、国際社会もアメリカに対する連帯の姿勢を示した。
小泉内閣の対応と「テロ対策特別措置法」の制定
平成時代の日本政治・外交史において、この事件は単なる対岸の火事ではなく、戦後安全保障政策の根本的な転換点となった。当時の小泉純一郎首相は事件直後にアメリカへの強い支持を表明し、「テロとの戦い」に同盟国として積極的に参画する方針を打ち出した。この強硬かつ迅速な対応の背景には、1991年の湾岸戦争において日本が多額の資金援助を行いながらも「カネだけ出して汗をかかない」と国際社会から冷遇された苦い経験(湾岸トラウマ)があった。
小泉内閣は同年10月、事件からわずか1ヶ月余りという異例のスピードでテロ対策特別措置法を成立させた。これにより、国連安保理決議に基づいてインド洋等で活動する多国籍軍に対し、自衛隊が後方支援活動を行うことが法的に可能となった。これは、日本有事や周辺事態とは直接関わらない、遠く離れた地域での対テロ作戦への支援を可能にした点で、画期的な新法であった。
自衛隊のインド洋派遣と安全保障政策の変容
テロ対策特別措置法に基づき、政府は同年11月、海上自衛隊の護衛艦や補給艦をインド洋へ派遣した。自衛隊の任務は、アフガニスタン周辺で対テロ作戦に従事するアメリカ軍や多国籍軍の艦船に対する洋上給油などの後方支援であった。戦前の反省から専守防衛を掲げてきた日本にとって、非戦闘地域に限定されるとはいえ、事実上の戦時下にある他国軍隊への直接的な兵站支援を目的とした海外派遣は、憲法第9条が禁じる「武力行使の一体化」や集団的自衛権の行使につながりかねないとして、国内で激しい憲法論争を呼んだ。
しかし、政府はこの派遣を強行・継続し、結果として自衛隊の海外での活動領域は飛躍的に拡大することになった。国際貢献の名の下に、自衛隊の役割が「専守防衛」から「グローバルな安全保障環境への関与」へとシフトしていく決定的な契機となったのである。
日米同盟の深化と後のイラク戦争への布石
同時多発テロ以降のアフガニスタン攻撃に対する支援を通じて、日本はアメリカにとって最も協力的な同盟国としての地位を確立し、いわゆる「小泉・ブッシュ関係」と呼ばれる強固な蜜月関係が築かれた。さらに日本は、2002年(平成14年)1月に東京で「アフガニスタン復興支援国際会議」を主催し、非軍事的な平和構築や復興支援の分野でも主導的な役割を果たした。
事件によって醸成された強固な対米協力の姿勢は、その後アメリカが2003年(平成15年)に開始したイラク戦争においても引き継がれた。小泉内閣は国際的な反対意見が根強い中でもいち早くアメリカの武力行使を支持し、同年にはイラク復興支援特別措置法を制定、陸上自衛隊をイラク南部のサマワへ派遣するという、より踏み込んだ対応へと繋がっていった。同時多発テロは、平成という時代における日本の国際社会での立ち位置を問い直し、日米同盟の再定義と防衛法制の拡大を推進する出発点となった歴史的事件である。