日米交渉
【概説】
1941年(昭和16年)、悪化の一途をたどる日米関係の打開を目指して、ワシントンで行われた両国間の外交交渉。日本の南部仏印進駐を契機にアメリカが対日石油全面禁輸などの経済制裁を断行し、最終的に「ハル・ノート」の提示を経て交渉は決裂、太平洋戦争開戦へと至った。
日米関係悪化の背景と交渉の端緒
1937年に勃発した日中戦争が長期化・泥沼化する中、日本は事態打開のために「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、南方への進出を企図していた。さらに1940年に日独伊三国同盟を締結したことは、アメリカやイギリスの強い警戒と反発を招き、日米関係は急速に冷却化した。こうした状況下、1941年春から駐米大使の野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルとの間で、関係改善に向けた非公式な予備交渉が開始された。民間人の仲介により「日米諒解案」が作成されるなど一時的な進展への期待も見られたが、日本の松岡洋右外相の強硬な反対や、中国からの撤兵をめぐるアメリカ側の基本原則(ハル四原則)との隔たりにより、正式な交渉は当初から難航を極めた。
南部仏印進駐とアメリカの経済制裁
1941年6月に独ソ戦が勃発すると、日本政府は7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定し、南方進出の推進と対ソ戦準備を並行する方針を固めた。この方針に基づき、日本は7月末に南部仏印進駐(フランス領インドシナ南部への軍隊進駐)を強行した。これは東南アジアの資源獲得と援蒋ルート(蔣介石政権への物資補給路)の遮断を目的としていたが、アメリカの逆鱗に触れる結果となった。アメリカは即座に在米日本資産の凍結を実施し、8月には対日石油全面禁輸という極めて強力な経済制裁を断行した。当時、消費する石油の大部分をアメリカに依存していた日本にとって、これは国家の死活問題であり、日米交渉は一気に切迫した状況へと追い込まれた。
近衛内閣の退陣と東条英機内閣の成立
事態の打開を焦る第3次近衛文麿内閣は、フランクリン・ローズヴェルト大統領との直接的な日米首脳会談を模索したが、アメリカ側は事前の合意がないとしてこれを拒否した。9月6日の御前会議において、日本政府は「帝国国策遂行要領」を決定し、10月上旬までに交渉が妥結しない場合は対米開戦に踏み切る方針を固めた。交渉期限が迫る中、日中戦争の主因である「中国からの撤兵問題」を巡り、何としても交渉をまとめたい近衛首相と、撤兵に強硬に反対し開戦を主張する東条英機陸軍大臣との対立が表面化した。結果として近衛は政権運営を放棄して総辞職し、10月に東条英機内閣が成立した。新内閣は天皇の意向を受けて白紙還元の立場で国策を再検討したが、結局は開戦の方針を維持しつつ、最後の外交努力として「甲案」「乙案」という妥協案を携えて来栖三郎特命全権大使をワシントンに追加派遣した。
「ハル・ノート」の提示と太平洋戦争への突入
日本側は部分的な譲歩を含む「乙案」を提示して事態の収拾を図ったが、アメリカ政府は日本の暗号を解読しており、日本の軍事的意図や交渉の期限を正確に察知していた。11月26日、ハル国務長官は日本側に対し、中国および仏印からの全面撤兵、日独伊三国同盟の事実上の廃棄、重慶政府(蔣介石政権)以外の政権の否認などを要求する覚書、いわゆるハル・ノートを提示した。これはアメリカ側の事実上の最後通牒であり、日本の中国大陸における権益を満州事変以前の状態に戻すことを要求する過酷な内容であったため、日本政府はこれを到底受け入れられないと判断した。こうして約8か月に及んだ日米交渉は完全に決裂し、日本は12月1日の御前会議で対米英蘭開戦を最終決定した。そして12月8日、日本軍による真珠湾攻撃およびマレー半島上陸作戦が決行され、凄惨な太平洋戦争へと突入していくこととなった。