絶対国防圏 (ぜったいこくぼうけん)
【概説】
太平洋戦争後期の1943年9月、日本政府および軍部が戦争継続のために必要不可欠として設定した、絶対に死守すべき本土防衛の外郭ライン。前線での相次ぐ敗退を受けて従来の肥大化した戦線を縮小し、本土空襲を阻止し得る防衛体制を再構築することを目的とした。しかし、軍事的な準備が整わないまま連合国軍の攻勢にさらされ、翌1944年7月のサイパン島陥落によって完全に崩壊した。
設定の背景と防衛線の範囲
1941年末に太平洋戦争を開戦した日本軍は、当初は東南アジアや太平洋の広大な地域を占領したが、1942年6月のミッドウェー海戦での大敗、1943年2月のガダルカナル島撤退などを経て、戦局は完全に守勢へと転じた。さらに1943年5月にはアッツ島で日本軍が初めて「玉砕」し、ソロモン諸島方面での消耗戦も激化していた。
こうした状況下、大本営および政府は広がりすぎた戦線を維持することが不可能であると判断し、1943年9月30日の御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱」を決定した。この中で定められたのが「絶対国防圏」である。その範囲は、千島列島から小笠原諸島、マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアムなど)、カロリン諸島、西部ニューギニア、スンダ列島を経てビルマへと至る広大なラインであり、この内側をいかなる犠牲を払っても維持し、長期戦に耐えうる自給自足の体制を整えることとされた。
防衛線の崩壊と東條内閣の退陣
絶対国防圏の設定は、裏を返せばそのラインの外側にある前線(ソロモン諸島やギルバート諸島など)の兵力を見捨てることを意味していた。しかし、これによって余剰となった兵力を国防圏の防備に回すという計画は、連合国軍の進撃スピードが日本の予想をはるかに上回ったことや、海上輸送船団が米潜水艦によって次々と撃沈されたことで破綻した。必要な兵力や物資が要塞化を進めるべき島々に届かないまま、防衛線は各地で突破されることとなる。
1944年6月、マリアナ諸島の制海権・制空権をかけたマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊が壊滅すると、翌7月には絶対国防圏の核心的拠点であったマリアナ諸島のサイパン島が陥落した。この事態は絶対国防圏の崩壊を意味し、当時の首相であった東條英機は、戦局悪化の責任を問われて内閣総辞職を余儀なくされた。
絶対国防圏崩壊がもたらした歴史的影響
サイパン島の陥落をはじめとするマリアナ諸島の失陥は、日本の敗戦を決定づける極めて重大な転換点となった。これにより、アメリカ軍はサイパン島やテニアン島に航空基地を建設し、新型の超大型爆撃機B-29を配備することが可能となった。マリアナ諸島から日本本土までは約2,400キロメートルであり、これはB-29の行動半径内に収まるものであった。
その結果、1944年11月以降、日本本土に対する本格的な本土空襲が開始され、全国主要都市の軍需工場や民間人が暮らす市街地が焼き払われることとなった。また、マリアナ諸島を失ったことで、南方からの資源輸送ルート(シーレーン)もほぼ完全に遮断され、日本の戦争継続能力は致命的に失われていくことになった。