サイパン陥落

1944年7月、日本の絶対国防圏の要であったマリアナ諸島の島が陥落し、これによって日本本土へのB29による本格的な空襲が可能となった島はどこか?
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サイパン陥落

1944年

【概説】
1944(昭和19)年7月、日本の「絶対国防圏」の要衝であったマリアナ諸島のサイパン島が、アメリカ軍の猛攻を受けて占領された出来事。これにより日本本土がアメリカ軍の新型爆撃機B-29の航続距離内に収まり、本土空襲が本格化する決定的な契機となった。また、この敗報は国内支配層に大きな衝撃を与え、開戦以来政権を維持してきた東條英機内閣が総辞職する直接的な引き金となった。

絶対国防圏の崩壊とマリアナ沖海戦

太平洋戦争中盤以降、戦局の悪化に直面した日本軍は、1943年9月の御前会議において、戦争遂行と本土防衛のためにこれ以上は絶対に後退できない防衛線として絶対国防圏を設定した。その中核をなす最重要拠点が、サイパン島を含むマリアナ諸島であった。しかし、1944年6月中旬、圧倒的な物量と火力を誇るアメリカ軍はサイパン島への上陸作戦を開始する。日本海軍はこれを阻止すべく空母機動部隊を出撃させたが、6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦において航空戦力に壊滅的な打撃を受け大敗を喫した。これによりサイパン島への海上からの補給や救援は不可能となり、守備隊は完全に孤立無援の状態に陥ったのである。

サイパン島の激戦と「バンザイ突撃」

サイパン島には第43師団を中心とする約3万の日本軍守備隊に加え、多くの日本人移民を中心とした約2万の民間人が在島していた。アメリカ軍の激烈な艦砲射撃と空爆、そして最新鋭の兵器を用いた地上戦の前に日本軍は次第に島の北部へと追い詰められていった。1944年7月7日、弾薬も食糧も尽きた日本軍残存将兵は最後の大規模な玉砕突撃(いわゆる「バンザイ突撃」)を敢行し、組織的戦闘は終結した。また、戦場の最前線に取り残された多数の民間人が、アメリカ軍の投降勧告を拒んで「バンザイクリフ」や「スーサイドクリフ」と呼ばれる断崖から次々と身を投げるという痛ましい悲劇も発生した。同月9日、アメリカ軍はサイパン島の完全占領を宣言した。

本土空襲の本格化とB-29の脅威

サイパン島の陥落が日本にもたらした軍事的影響は極めて甚大であった。マリアナ諸島がアメリカ軍の手に落ちたことで、同地に大規模な航空基地が建設されることとなったからである。これにより、東京や大阪など日本本土の大部分が、アメリカ軍の新型長距離爆撃機B-29の有効航続距離圏内にすっぽりと収まってしまった。同年11月以降、サイパン島や隣接するテニアン島、グアム島を飛び立ったB-29による日本本土への戦略爆撃が本格化する。軍需工場のみならず都市部に対する無差別爆撃(焼夷弾攻撃)が激化し、日本の軍需生産能力と国民生活は壊滅的な打撃を受けることとなった。

東條英機内閣の退陣と戦争指導の行き詰まり

「絶対に死守すべき」と国民に宣伝されていたサイパン島の陥落は、日本の政治中枢を大きく揺るがした。太平洋戦争開戦以来、首相・陸軍大臣などを兼任し、さらに参謀総長までをも兼務して強権的な戦争指導を行ってきた東條英機に対する不満が、重臣や皇族、海軍内部から一気に噴出したのである。東條は内閣改造によって事態の収拾と政権の延命を図ったが、岸信介国務相が強硬に辞任を拒否して閣内不一致を引き起こすなど、政権内部からも反旗を翻された。四面楚歌となった東條は、サイパン陥落直後の1944年7月18日に内閣総辞職に追い込まれた。後継には小磯国昭と米内光政による連立内閣(小磯内閣)が成立したが、すでに崩壊した国防線を立て直すことは不可能であり、日本の敗戦は避けられないものとなっていった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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