毒ガス戦
【概説】
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、日本陸軍が国際条約に違反して化学兵器を使用した戦闘。主に中国戦線において展開され、数多くの中国軍民に甚大な被害をもたらした。近代日本における軍事進出の歴史的暗部を示すとともに、戦後の遺棄化学兵器問題など、現代にまで続く戦後処理の課題としても極めて重要な事象である。
化学兵器開発の背景と「大久野島」の秘密
日本軍における化学兵器の研究・開発は、第一次世界大戦における西武戦線でのガス戦の衝撃を契機に、1910年代末から本格化した。1929年には、瀬戸内海に位置する広島県の大久野島に陸軍の毒ガス製造工場が建設され、イペリット(皮膚をただれさせる「きい剤」)やルイサイト、ホスゲンなどの国際法で禁止された猛毒ガスが極秘裏に大量生産された。この事実は軍事機密とされ、陸地測量部が発行する地図からも大久野島は抹消された。また、製造に従事した労働者や動員された学徒たちも、戦後長きにわたって深刻な後遺症(毒ガス障害)に苦しむこととなった。
日中戦争における実戦使用と国際条約違反
1937年に勃発した日中戦争において、日本軍は優勢な中国軍の陣地を突破するため、あるいはゲリラ戦に対抗するため、組織的に毒ガス兵器を使用し始めた。特に1938年の武漢作戦や、1941年の宜昌作戦などにおいて大規模な毒ガス戦が展開された。当時、化学兵器の使用は1925年に調印されたジュネーヴ議定書(窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)によって国際法上禁止されていた。日本は同議定書に署名していたものの(批准は未完了)、国際社会からの非難や報復を恐れて使用の事実を徹底的に隠蔽し、公式文書では「黄剤」や「赤剤」(くしゃみ剤)などの隠語を用いて記録を残した。
戦後への影響と遺棄化学兵器問題
1945年の敗戦時、日本軍は国際的な戦争犯罪(戦犯)としての追及を恐れ、毒ガス兵器に関する資料を焼却するとともに、大量の毒ガス兵器を中国大陸各地に遺棄、あるいは河川や土中に埋却して撤退した。これらの遺棄化学兵器は、戦後も現地住民に不測の死傷者を出すなどの二次被害を引き起こし続けた。1997年に発効した化学兵器禁止条約(CWC)に基づき、日本政府は中国における遺棄化学兵器の回収・廃棄義務を負うこととなり、現在も日中間における重要な外交・戦後補償問題として処理事業が続けられている。このように、毒ガス戦は単なる一過性の戦術にとどまらず、人道無視の極致として、戦後日本の国際的責任を問い続ける歴史的課題となっている。