勤労動員
【概説】
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、深刻化する労働力不足を補うために国家が実施した労働力動員政策。本来は兵役や労働から保護されるべき学生や未婚女性などが、軍需工場や食料生産の現場へ強制的に動員された体制を指す。
総力戦体制の構築と労働力不足
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の長期化、および1941年(昭和16年)の太平洋戦争への突入に伴い、日本は国力のすべてを戦争に注ぎ込む「総力戦体制」を余儀なくされた。前線へ大量の成人男性が兵士として動員(召集)された結果、国内の軍需工場、炭鉱、農業などの生産現場では極端な労働力不足が引き起こされた。
第一次近衛文麿内閣は1938年、議会の承認なしに勅令によって人や物資を統制・動員できる国家総動員法を制定。これに基づき「国民徴用令」などが発令され、一般市民の労働力が強制的に国家の管理下に置かれることとなった。戦局が悪化するにつれてこの傾向はさらに強まり、動員の対象は若年層や女性へと拡大していった。
学徒動員と女子挺身隊
1943年(昭和18年)以降、労働力不足は決定的なものとなり、政府は学校教育の制限に踏み切った。同年末には高等教育機関の文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、多くの学徒が戦場へと送られた(学徒出陣)。一方、残された理科系の学生や、中等学校(現在の中学・高校に相当)以上の生徒に対しては、学校での授業を停止して軍需工場や食料生産、陣地構築などに従事させることが閣議決定された。これが1944年(昭和19年)の「学徒勤労令」によって制度化された学徒勤労動員である。
同時に、女性の労働力化も推進された。14歳以上25歳未満の未婚女性を対象に女子挺身勤労令が発令され、多くの女性が女子挺身隊として組織された。彼女たちはそれまでの家庭的な役割から切り離され、航空機工場などの軍事産業において過酷な労働に従事することとなった。
銃後の崩壊と戦後への影響
勤労動員によって、日本の教育制度は事実上破綻し、学校は教育の場から生産の場へと変貌した。動員された学生や女性たちは、慣れない重労働や不衛生な環境、食糧難に苦しんだだけでなく、戦争末期には米軍による日本本土空襲の標的となった軍需工場において、多くの尊い命が失われるという悲劇も生じた。
前線と銃後(国内)が一体となったこの過酷な総動員体制は、国民生活を精神的・肉体的に極限まで追い詰め、日本の敗戦とともに解体された。戦後、この時期の教育・労働における痛苦な体験は、平和主義の台頭や新憲法下での教育改革(教育基本法の制定など)を強く後押しする原動力となった。