特別攻撃隊(特攻隊) (とくべつこうげきたい)
【概説】
太平洋戦争末期、圧倒的な物量差を誇る連合国軍に対し、日本陸海軍が組織した生還を期さない体当たり攻撃部隊。航空機に重爆弾を搭載して敵艦船に激突する「神風特別攻撃隊」をはじめ、人間魚雷や爆装ボートなどを用いた。国家の組織的な作戦として操縦員の命を兵器の一部とした、近代軍事史上極めて異例かつ非人道的な戦術である。
特攻隊の編成背景と「十死零生」の作戦承認
1944年(昭和19年)半ば、日本軍はマリアナ沖海戦での大敗やサイパン島の陥落により「絶対国防圏」を突破され、戦局は決定的な敗色を帯びていた。制空権と制海権を完全に奪われ、熟練パイロットの消耗や燃料・機材の枯渇に直面した大本営は、通常の戦術ではアメリカ軍の圧倒的な防空網を突破できないと判断する。同年に計画されたフィリピン防衛戦(捷一号作戦)に際し、海軍第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の主導のもと、最初の神風特別攻撃隊(敷島隊など)が組織された。
特攻は、生存の可能性が皆無である「十死零生(じっしれいしょう)」の作戦であり、それまでの陸海軍が禁忌としていた人道に反する戦術であった。しかし、1944年10月のレイテ沖海戦における最初の特攻が米空母を撃沈するなど一時的な戦果を上げたことで、大本営はこれを「救国の至妙手」として追認。以後、国家の正式な戦術として常態化していくこととなった。
特攻兵器の多様化と沖縄戦における「菊水作戦」
特攻が公式の作戦方針(天号作戦など)に組み込まれると、航空機だけでなく様々な「特攻専用兵器」の開発が進められた。ロケット推進の人間爆弾「桜花(おうか)」、人間魚雷「回天(かいてん)」、爆装快速艇「震洋(しんよう)」(海軍)や「マルレ」(陸軍)など、いずれも脱出装置を欠いた文字通りの必死兵器であった。
1945年(昭和20年)春の沖縄戦では、陸海軍共同による大規模な航空特攻「菊水作戦」が展開された。この時期には熟練の搭乗員はほとんど生存しておらず、動員されたのは、軍学校の少年飛行兵や、学徒出陣によって学舎を追われ、わずかな飛行訓練しか受けていない高学歴の若者たちであった。彼らは軍国主義教育と「志願」を装った事実上の強制・同調圧力のもと、祖国や家族の安泰を願って出撃していった。
人命軽視の戦術が残した歴史的教訓
特攻による戦死者は、航空特攻だけで約4000名、水上・水中特攻などを合わせると約1万4000名にのぼる。初期こそ米軍に多大な心理的衝撃と損害を与えたものの、米軍がレーダー網や近接信管(VT信管)による防空システムを確立すると、特攻機の多くは敵艦に到達する前に撃墜され、戦況を逆転させるには至らなかった。終戦直前の日本軍は、本土決戦(決号作戦)に向けて全軍特攻化を進めていたが、そのまま敗戦を迎えた。
戦後、特別攻撃隊の悲劇は、個人の生命を国家の道具とした「人命軽視」の極致として強く批判された。同時に、理不尽な死を強制されながらも他者を守るために散っていった若い隊員たちの手記(『きけ わだつみのこえ』など)は、戦後日本における平和主義の原点となり、二度と戦争を繰り返してはならないという教訓として語り継がれている。