硫黄島の戦い (いおうとうのたたかい)
【概説】
太平洋戦争末期の1945年2月から3月にかけて、小笠原諸島の硫黄島において日本軍守備隊とアメリカ軍との間で繰り広げられた激しい防衛戦。栗林忠道陸軍中将率いる日本軍が緻密な地下壕陣地を構築して徹底した持久戦を展開し、米軍に多大な出血を強いた。日本の敗色が濃厚となるなか、本土防衛のための「時間稼ぎ」として死力を尽くした凄惨な戦闘である。
米軍の戦略目標と硫黄島の位置づけ
1944年にマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)を攻略したアメリカ軍は、そこを拠点として超大型爆撃機B-29による日本本土への戦略爆撃を開始した。しかし、マリアナから東京までは往復約5000キロメートルもの距離があり、当時の護衛戦闘機を随伴させることが不可能であった。さらに、その中間に位置する硫黄島には日本軍の航空基地があり、ここから防空哨戒や迎撃機の発進が行われ、本土への中継警告がなされるなど、米軍の爆撃作戦において大きな障害となっていた。
そのため米軍は、本土爆撃の効率化、B-29の緊急着陸地、および随伴する護衛戦闘機(P-51など)の基地を確保することを目的に、硫黄島の占領を決定した。日本側にとっても、この島を失うことは本土への直接的な航空脅威を決定づけることを意味するため、何としても防衛せねばならない極めて重要な戦略的要衝であった。
栗林中将の革新的な防衛戦術
硫黄島守備隊の最高指揮官に任命された陸軍中将の栗林忠道は、圧倒的な物量と火力を誇る米軍に対し、従来の日本軍が踏襲してきた「水際での撃退作戦」や「一斉のバンザイ突撃(万歳突撃)」は、全滅を早めるだけで無意味であると見抜いていた。栗林は、島の火山岩や砂礫という特異な地質を利用し、総延長20キロメートルに及ぶ広大な地下要塞(地下壕陣地)を構築することを選択した。
栗林は部下に対し、無駄な玉砕を厳禁とし、陣地に踏みとどまって「一人十殺(1人が敵を10人倒す)」の精神で徹底的な抗戦を続けるよう命じた。これにより、日本軍は米軍の激烈な事前艦砲射撃や空爆を地下でやり過ごし、米軍が島に上陸した後に地下から神出鬼没の不意打ちをかけるという、極めて執拗な持久戦・消耗戦の体制を確立した。
凄惨を極めた戦闘とその歴史的意義
1945年2月19日、米軍が硫黄島への上陸を開始すると、激しい戦闘の火蓋が切られた。米軍は当初、わずか5日程度で島を制圧できると予測していたが、摺鉢山(すりばちやま)の攻防や島北部での地下壕戦闘など、日本軍の粘り強い抵抗により凄惨を極める長期戦となった。3月26日、栗林中将以下による最後の総攻撃が行われ、組織的戦闘は終結した。
日本軍は守備隊約2万1000人のうち約2万人が戦死(または自決)するという壊滅的な結果となったが、アメリカ軍もまた、戦死者約6800人、負傷者約1万9000人という甚大な被害を出した。これは太平洋戦争において、「米軍の総死傷者数が日本軍の戦死者数を上回った」唯一の戦闘である。この硫黄島での予期せぬ大苦戦は、その後の沖縄戦における凄惨な持久戦を予測させ、米軍が日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を回避して早期に戦争を終結させるための原子爆弾投入を決断する、心理的一因になったとも指摘されている。