沖縄戦
【概説】
1945年(昭和20年)3月末の米軍上陸に始まり、同年6月下旬まで続いた太平洋戦争における大規模な地上戦。日本国内で唯一、一般住民を巻き込んだ凄惨な戦闘となり、日米両軍のみならず約12万人もの沖縄県民が犠牲となった。本土決戦を少しでも遅らせるための「捨石」としての役割を担わされた点に、この戦闘の歴史的特徴がある。
太平洋戦争の戦局悪化と沖縄の戦略的地位
1944年(昭和19年)7月のサイパン島陥落によって日本の絶対国防圏は崩壊し、米軍は日本本土への直接攻撃および上陸を視野に入れた。米軍は本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を円滑に進めるための足場として、大規模な飛行場や港湾施設を建設できる広大な陸地を必要としており、台湾と並んで沖縄本島がその重要な標的となった。
一方、日本軍の最高統帥部である大本営は、すでに兵力や物資の面で米軍に対抗できる状態になく、沖縄を本土決戦に向けた時間稼ぎのための「防波堤(捨石)」と位置づけた。沖縄に配備された第32軍(司令官・牛島満中将)は、米軍の進軍を可能な限り長期にわたって食い止めるための持久戦の準備を進めた。
米軍の上陸と首里攻防戦
1945年(昭和20年)3月26日、米軍は沖縄本島西方の慶良間諸島に上陸を開始した。続いて4月1日には、本島中西部の読谷・嘉手納海岸から約6万人もの大部隊が上陸を果たした(最終的に沖縄戦に投入された米軍兵力は約50万人に及ぶ)。これに対し、日本軍は水際での迎撃を避け、内陸部の複雑な地形と強固な地下陣地を利用した徹底的な持久戦を展開した。
特に、第32軍司令部が置かれていた首里城の周辺を中心とする中南部戦線では、日米両軍による凄惨な攻防戦が繰り広げられた。米軍は圧倒的な物量をもって艦砲射撃や空爆を行い、地形が変わるほどの凄まじい攻撃は「鉄の暴風」と呼ばれた。5月末、日本軍は首里の司令部を放棄し、本島最南部の摩文仁(まぶに)へと撤退を余儀なくされ、これにより戦線は一般住民の避難地域へと拡大していった。
一般住民の多大な犠牲
沖縄戦の最大の悲劇は、数十万人もの一般住民が狭い島内の戦場に取り残され、戦闘に直接巻き込まれたことにある。日本軍は圧倒的な兵力不足を補うため、現地の10代の少年たちを鉄血勤皇隊や通信隊として根こそぎ動員し、女子学生らもひめゆり学徒隊などの従軍看護婦として過酷な前線に送った。
米軍の包囲が南部に迫る中、多くの住民がガマ(自然洞窟)に避難したが、そこでも悲惨な事態が多発した。陣地を失った日本兵によるガマからの住民の追い出しや食料の強奪が発生し、さらには「米軍に捕まれば残虐な扱いを受ける」という軍国主義教育の影響から、手榴弾などを用いて自ら命を絶つ集団自決(強制集団死)に追い込まれる悲劇も各地で相次いだ。
組織的戦闘の終結と戦後沖縄への影響
1945年6月23日(異説として22日)、本島南部の摩文仁の司令部壕において、牛島司令官と長勇参謀長が自決した。これにより日本軍の組織的な戦闘は終結したとされるが、司令官が降伏命令を出さず「最後まで戦え」と命じて自決したため、その後も残存兵や住民の犠牲は増え続けた(最終的な降伏調印は同年9月7日)。
この戦闘による戦死者は日米合わせて約20万人に上り、そのうち約12万人(当時の沖縄県民の約4分の1)が沖縄県出身者であった。沖縄戦は、国家が自国の国民の生命を守るどころか、本土防衛の「捨石」として利用したという重い歴史的教訓を残した。のみならず、沖縄が戦後長期にわたってアメリカの軍政下に置かれ、現在に至るまで広大な米軍基地が集中し続ける構造を生み出す決定的な出発点となったのである。