志賀義雄 (しがよしお)
1901年~1989年
【概説】
大正から昭和時代にかけて活動した日本の社会主義運動家、政治家。第二次世界大戦後の1945年10月に徳田球一らとともに出獄し、機関紙『赤旗』の復刊や日本共産党の再建に中核として尽力した。のちに部分的核実験禁止条約の賛否などを巡って党主流派と対立し、除名処分を受けた。
戦前の非合法活動と長きにわたる投獄
志賀義雄は東京帝国大学在学中から社会主義運動に身を投じ、日本共産党(第一次・第二次)の結成運動に参加した。しかし、天皇制の打倒や私有財産制の否定を掲げる共産党に対する国家の弾圧は厳しく、1928年の三・一五事件において志賀は検挙された。その後、治安維持法のもとで非転向を貫き、敗戦に至るまで約18年間もの長期にわたり獄中で過ごすこととなった。この徹底した「非転向」の姿勢は、戦後の共産党再建において、指導者としての道徳的権威の源泉となった。
敗戦後の出獄と日本共産党の再建
1945年8月の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が発した「人権指令」に基づき、志賀は同年10月に徳田球一らとともに府中刑務所から出獄した。出獄後、直ちに日本共産党の再建闘争を開始し、弾圧によって廃刊に追い込まれていた機関紙『赤旗』(当時の表記は『アカハタ』)の復刊に尽力した。戦後の混乱期において、志賀は徳田や宮本顕治らとともに党の最高幹部として活動し、衆議院議員としても当選を重ねて労働運動や社会運動を指導した。しかし、のちに部分的核実験禁止条約への賛否を巡り、ソ連との関係を重視する立場から党方針に反して賛成票を投じたため、1964年に党から除名されることとなった。