日本自由党
【概説】
終戦直後の1945年11月、旧立憲政友会系の政治家を中心として結成された戦後初の本格的な保守政党。初代総裁に鳩山一郎を擁して戦後政治の幕開けを担い、後の民主自由党から現在の自由民主党へと連なる戦後保守本流の源流となった。
敗戦と旧政友会系の集結
1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾による敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって政治的自由が回復すると、戦前の政党政治家たちは直ちに新党結成に動いた。その先駆けとなったのが日本自由党である。戦前の二大政党の一つであった立憲政友会(正統派)の系譜を引く鳩山一郎を中心に、芦田均、安藤正純らが発起人となり、同年11月9日に結党された。
党の綱領では、ポツダム宣言の確実な履行による軍国主義の根絶、基本的人権の尊重と民主政治の確立を掲げる一方で、天皇制の護持を強く主張した。個人主義と自由主義を基礎とし、新興の社会主義勢力(日本社会党や日本共産党)に対抗する保守政党としての立ち位置を明確にしていた。
鳩山一郎の公職追放と吉田茂の登場
1946年(昭和21年)4月、戦後初かつ女性参政権が初めて行使された第22回衆議院議員総選挙において、日本自由党は141議席を獲得し第1党へと躍進した。当然、総裁の鳩山一郎に組閣の大命が下るものと見られていたが、組閣直前の5月4日、GHQは突然鳩山に対して公職追放の指令を下した。戦前の統帥権干渉問題での言動や、著書『世界紀行』における反民主主義的な記述などがGHQに問題視されたためである。
目前で政権を奪われた鳩山は、外務大臣を務めていた吉田茂に後継総裁への就任を懇願した。吉田は「人事と資金調達には口出しさせない」「いつでも辞める」という条件を突きつけた上でこれを引き受け、第2代総裁に就任。ここに第1次吉田内閣が成立した。本来は鳩山が追放解除されるまでの「リリーフ」であったはずの吉田が政権を担ったことは、その後の戦後政治の力学(「党人派」と「官僚派」の対立など)に決定的な影響を与えることとなる。
第1次吉田内閣と日本国憲法の制定
日本自由党が与党となった第1次吉田内閣の最大の歴史的使命は、日本国憲法の制定であった。GHQの強力な指導と介入のもと、政府案(マッカーサー草案をベースとしたもの)を帝国議会で審議し、1946年11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行した。また、農地改革や労働三法の制定、教育基本法の制定など、戦後日本の民主化の骨格をなす重要法案を次々と成立させた。
しかし、深刻なインフレーションと食糧危機を背景に労働運動が激化し、1947年の「二・一ゼネスト」がGHQの命令で中止されるなど、社会不安は頂点に達していた。このような情勢のなかで行われた1947年4月の第23回衆議院議員総選挙(新憲法下で初の選挙)において、日本自由党は131議席にとどまり、日本社会党に次ぐ第2党に転落した。
野党への転落と民主自由党への再編
選挙での敗北により吉田内閣は総辞職し、日本社会党・民主党(日本進歩党の後身)・国民協同党の三党連立による片山哲内閣が成立した。日本自由党は野党に回り、政府の社会主義的政策(炭鉱国家管理法案など)に激しく抵抗した。この過程で、保守中道路線をとる民主党との間で対立が深まる一方、民主党内の保守強硬派との連携を模索し始めた。
片山内閣、続く芦田内閣が相次いで崩壊へと向かう中、吉田茂率いる日本自由党は、民主党を離党した幣原喜重郎らのグループ(同志クラブ)を糾合し、1948年(昭和23年)3月に民主自由党を結成した。これにより日本自由党は発展的に解消した。この保守合同に向けた動きは、後の第2次吉田内閣の成立、ひいては1955年(昭和30年)の自由民主党結成へと繋がる戦後保守太宗の形成過程において、極めて重要な第一歩であったと評価できる。