三代格式

嵯峨・清和・醍醐の各天皇の時代に編纂され、法令を整理した3つの「格」と「式」を総称して何というか?
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重要度
★★★

【参考リンク】
三代格式(Wikipedia)

三代格式 (さんだいきゃくしき)

820年〜927年

【概説】
平安時代に編纂された『弘仁格式』『貞観格式』『延喜格式』という3つの法令集の総称。律令制の運用を補完するために出された追加法(格)と施行細則(式)を集大成したものであり、平安時代の政治・社会・制度を知る上で欠かせない根本史料である。

律令制の変質と「格式」編纂の背景

飛鳥時代から奈良時代にかけて確立した律令制は、基本法典である「律(刑法)」と「令(行政法・民法など)」によって国家を運営する仕組みであった。しかし、平安時代に入ると社会情勢や経済構造の変化が著しくなり、固定化された律令の条文だけでは現実の政治課題に対応しきれなくなった。そこで、律令の規定を修正・補足するための追加法である「格(きゃく)」と、律令や格を運用するための細かい施行細則である「式(しき)」が、天皇の詔勅や太政官符といった形で頻繁に発布されるようになった。

時代が下るにつれて単行の格式が膨大な数に上ると、新旧の法令が矛盾したり、過去の法令を探し出すのが困難になったりするなど、実際の行政運営に大きな支障をきたすようになった。そこで朝廷は、蓄積された格式を取捨選択し、体系的に分類・整理した公的な法令集の作成に乗り出したのである。

弘仁・貞観・延喜の三代格式

格式の編纂は、平安時代前期から中期にかけての国家再建や政治改革の動きと密接に関わりながら、三度にわたって行われた。これらを総称して三代格式と呼ぶ。

第一の編纂は、嵯峨天皇の時代に行われた『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』である。藤原冬嗣らが中心となって大宝律令制定以来の法令を整理し、820年(弘仁11年)に完成させた。これにより、平安時代初期の実情に合わせた法体系の再整備が図られた。

第二の編纂は、清和天皇の時代の『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』である。藤原氏宗らによって、弘仁格式以降に発布された法令がまとめられ、格は869年(貞観11年)、式は871年(貞観13年)に施行された。

第三の編纂は、醍醐天皇の時代の『延喜格式(えんぎきゃくしき)』である。藤原時平が編纂を開始し、その死後は弟の藤原忠平が引き継いだ。格は907年(延喜7年)に、式は927年(延長5年)に完成した。醍醐天皇の治世は「延喜の治」と呼ばれ、律令体制への回帰や天皇親政が志向された時期であり、この法典編纂も国家の引き締めを狙った重要政策の一つであった。

法制史における意義と『類聚三代格』『延喜式』

三代格式は、律令制から王朝国家体制への過渡期において、日本独自の法体系がどのように成熟・変容していったかを示す極めて重要な歴史的証拠である。唐の法制度の模倣から出発した日本の律令法が、いかにして日本の風土や社会構造に適合するようカスタマイズされていったかが、これらの法令集の変遷から読み取ることができる。

三代格式そのものは、年月を経るにつれて完全な形では伝存しなくなった。しかし、平安時代後期に三代の「格」を年代順ではなく事目(テーマ)別に再分類して使いやすくした『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』が編纂されており、現在でもその一部が残存しているため、当時の追加法の変遷を辿ることができる。また、「式」に関しては、第三の編纂物である『延喜式(えんぎしき)』がほぼ完全な形で伝わっている。『延喜式』は全50巻からなり、特に神祇官関係の規定(全国の神社を網羅した「延喜式神名帳」など)は、古代の神道や祭祀の実態を知るための第一級の史料として現在も重宝されている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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