松本烝治 (まつもとじょうじ)
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した法学者、政治家。太平洋戦争直後の幣原喜重郎内閣で国務大臣を務め、憲法問題調査委員会の委員長として明治憲法の改正草案(松本案)を取りまとめた人物である。
エリート法学者から憲法問題調査委員会委員長へ
松本烝治は東京帝国大学教授として商法学の権威であり、南満洲鉄道の副総裁や、戦前の第2次山本権兵衛内閣における法制局長官、岡田啓介内閣における商工大臣などを歴任した、極めて優秀な官僚・政治家・学者であった。
1945年(昭和20年)の敗戦後、東久邇宮稔彦王内閣に無任所の国務大臣として入閣し、続く幣原内閣でも留任した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサーから憲法改正を促された日本政府は、内閣に憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)を設置し、松本はその委員長として改正作業を委ねられることとなった。
保守的な「松本案」とGHQの拒絶
松本は「明治憲法(大日本帝国憲法)そのものは優れた憲法であり、軍部の暴走を防げなかったのは運用の誤りにすぎない」と考えていた。そのため、彼が中心となってまとめた憲法改正案(松本案)は、天皇の統治権(主権)や軍帥権を維持し、国民の権利や自由への制限も残すなど、明治憲法の骨格を温存しようとする極めて保守的な内容であった。
1946年2月1日、この松本案の概要が毎日新聞にスクープされると、世論から「不徹底な改革」として批判を浴びただけでなく、日本の徹底的な民主化を求めていたGHQをも深く失望させることとなった。当時の極東委員会による天皇訴追などの圧力を回避するためにも、GHQは松本案を即座に拒絶し、民政局に命じてわずか数日で独自の草案(マッカーサー草案)を作成させ、日本政府にその受け入れを迫った。
日本国憲法成立における歴史的意義
松本は、GHQから提示された「国民の主権」「戦争の放棄」「象徴天皇制」を三原則とする英語の草案に大きな衝撃を受け、日本の歴史や国体に合わないとして激しく反発した。しかし、GHQの断固たる態度と国際情勢の緊迫を前に、日本政府は最終的にマッカーサー草案を受け入れざるを得なかった。
結果として松本の明治憲法を守ろうとする保守的な抵抗は、GHQをして「日本側に任せていては民主的な改革は進まない」と決断させ、きわめて先進的で民主主義的な現行の日本国憲法を急進的に成立させる最大の契機(触媒)となった。戦後初期の日本指導層の限界を象徴する人物として、憲法史上にその名が深く刻まれている。