政令201号
【概説】
連合国軍最高司令官マッカーサーの書簡に基づき、芦田均内閣が制定した、公務員の団体交渉権と争議権を否定するポツダム政令。戦後の急進的な労働運動を抑止するために出され、後の国家公務員法改正などへつながる転換点となった。
労働運動の過激化と「逆コース」への転換
第二次世界大戦後の日本において、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による初期の民主化政策のもと、労働運動は急速に高揚した。特に官公庁や国鉄などの公務員・公共部門の労働者(官公労)は強力な組織力を持ち、1947年にはゼネラルストライキ(二・一スト)を計画するまでに至った。このストライキはマッカーサーの直接命令によって中止されたものの、その後も官公労による激しい闘争や治安の混乱は続いた。
同時代、冷戦の激化に伴いアメリカの対日占領政策は、日本の「民主化・非軍事化」から「東アジアにおける反共の砦・経済的自立」を重視する方向、いわゆる逆コースへと舵を切っていた。生産復興を阻害する急進的な労働運動、とりわけ国家の機能停止に直結する公務員のストライキは、GHQにとって看過できない存在となっていった。
マッカーサー書簡と緊急措置としての政令201号
1948年7月22日、連合国軍最高司令官マッカーサーは、芦田均首相に対して書簡(いわゆるマッカーサー書簡)を送付した。その内容は、国家公務員は主権者である国民全体に対する奉仕者であり、政府に対する争議行為(ストライキなど)や、義務を伴わない団体交渉権は認められないとするものであった。
この書簡を受け、芦田内閣は国会を招集して法改正を行う猶予がないと判断し、同年7月31日にポツダム宣言受諾に伴う超憲法的命令(ポツダム政令)として、政令201号を公布・即日施行した。この政令により、すべての官公法労働者の争議権が剥奪され、団体交渉権も制限されることとなった。また、これに違反した者には刑事罰が科されるという、極めて厳しい内容であった。
労働運動への打撃と戦後公務員制度の確立
政令201号の制定は、それまで戦後労働運動を牽引してきた官公労に対して壊滅的な打撃を与えた。翌1948年12月には、この政令の内容を恒久化する形で国家公務員法が改正され、公務員の争議権否認と団体交渉権制限が正式に法制化された。さらに、専売や国鉄などの現業部門は「公共企業体」として分離され、翌年に地方公務員法や公共企業体等労働関係法(公労法)が整備された。
このように、政令201号は戦後日本における公務員の労働三権(特に争議権と団体交渉権)を著しく制限する契機となり、その法的枠組みは現代の日本社会においても基本的に引き継がれている。