日米安全保障条約
【概説】
1951年のサンフランシスコ平和条約と同日に結ばれ、独立後の日本に対するアメリカ軍の駐留と基地の継続使用を認めた条約。冷戦構造下における日本の戦後安全保障体制の根幹を規定し、今日まで続く日米同盟の出発点となった。
冷戦の激化と講和への道筋
第二次世界大戦後、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営による冷戦が激化すると、アメリカの対日占領政策は非軍事化・民主化から、日本を「反共の防波堤」として育成する方針へと大きく転換した。とりわけ1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本の戦略的価値は急激に高まった。アメリカは日本を西側陣営に組み込んだ上での早期独立を急ぎ、対日講和を推進することとなった。
当時の吉田茂内閣は、経済復興を最優先とし、本格的な再軍備を避ける「軽武装・経済重視」の路線をとっていた。そのため、独立後の日本の安全保障をアメリカの軍事力に依存するという現実的な選択を下し、西側諸国のみとの単独講和(多数講和)に応じるとともに、本条約の締結へと踏み切ったのである。
旧安保条約の内容と「片務性」
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約の署名からわずか数時間後、同じサンフランシスコの地で日本とアメリカの間で日米安全保障条約(旧安保条約)が署名された。全権団が揃って署名した平和条約とは異なり、安保条約には吉田茂首相ただ一人が署名した。これは、国内の再軍備反対派への配慮や、他国軍隊の駐留を認めることへの政治的責任を吉田が一人で背負う覚悟の表れであったとされている。
旧安保条約の最大の特徴は、きわめて片務的かつ不平等な性質を持っていた点である。この条約では、日本がアメリカ軍に基地を提供する義務を負う一方で、アメリカ側には日本を防衛する義務が明記されていなかった。さらに、日本国内で大規模な内乱が起きた際に米軍が出動できるとする内乱条項や、翌年の日米行政協定によって米軍人・軍属に対する裁判権(治外法権的な特権)がアメリカ側に認められるなど、独立国としての主権を著しく制限する内容が含まれていた。
1960年の安保改定(新安保条約)
旧安保条約の不平等な内容に対しては、独立を回復した国内から強い不満が噴出した。これを受けて、1950年代後半から条約の改定交渉が模索されるようになる。特に強い熱意を持ってこれに取り組んだのが岸信介内閣であった。岸は日米関係をより対等なパートナーシップへと引き上げることを目指し、アメリカとの厳しい交渉の末、1960年に新たな条約の調印にこぎつけた。
1960年1月に署名された日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)では、旧条約の不平等な点が大きく修正された。具体的には、アメリカによる日本の防衛義務が明確化され、内乱条項は削除された。また、米軍の配置や装備の重要な変更、日本からの戦闘作戦行動については、事前に日本政府と協議を行うとする事前協議制が導入され、両国の関係は双務的なものへと大きく前進した。
安保闘争と日本の安全保障の基軸へ
条約の内容は日本にとって改善されたものであったが、冷戦下でアメリカの戦争に巻き込まれることへの危機感や、岸内閣の強権的な国会運営に対する反発が結びつき、日本国内では戦後最大規模の大衆運動である安保闘争が巻き起こった。連日、国会議事堂周辺をデモ隊が取り囲む異常事態となったが、条約は1960年6月に自然成立し、岸内閣は混乱の責任をとって退陣した。
その後、日米安保条約は1970年に定められた期限を迎えたが、破棄の通告が行われなかったため自動延長され(70年安保)、現在に至るまで効力を維持している。激しい反対運動に晒された日米安全保障条約であったが、結果的に日本の防衛費負担を軽減させ、高度経済成長を裏から支える役割を果たした。冷戦終結後も、条約は極東地域の平和と安定を維持するための日米同盟の法的な基盤として、日本の外交・安全保障政策の揺るぎない基軸となっている。