日米行政協定 (にちべいぎょうせいきょうてい)
【概説】
サンフランシスコ平和条約および旧日米安全保障条約に基づき、日本とアメリカ合衆国との間で結ばれた軍事協定。日本に駐留する米軍の基地使用条件や、米米軍人の地位、刑事裁判権などを詳細に規定した。日本の主権回復の裏で、実質的な不平等関係を継続させる役割を果たした制度である。
主権回復の裏で進められた軍事的一体化
1951年9月、日本はサンフランシスコ平和条約に調印して独立を勝ち取る一方、同時に署名した(旧)日米安全保障条約によってアメリカ軍の継続駐留を受け入れた。しかし、旧安保条約は米軍駐留の基本方針を定めた大枠に過ぎず、米軍が日本国内で活動するための具体的な権利や条件は未定であった。これらを規定するため、1952年2月に両国間で署名され、平和条約の発効と同日の1952年4月28日に施行されたのが「日米行政協定」である。本協定は国会の承認を必要としない「行政協定」の形式で締結され、日本の主権回復と引き換えに、米軍の排他的な特権を国内法を超越する形で認めることとなった。
不平等な特権規定と主権の制限
日米行政協定の内容は、かつての幕末に結ばれた不平等条約を想起させるほど、米軍側に有利な特権を認めるものであった。最大の問題点となったのが刑事裁判権に関する規定である。米軍人やその家族、軍属が日本国内で罪を犯した場合、たとえそれが「公務外」であっても、合衆国軍法会議が第1次の裁判権(優先して裁く権利)を持つとされ、日本側の警察や司法が立ち入れないケースが多発した。また、日本政府が米軍に対して基地を無償で提供することや、米軍資材への関税免除、さらに日本側が米軍の駐留経費の一部を「防衛分担金」として負担することなどが定められ、日本の国家財政や国民生活に重い負担を課すこととなった。
基地反対運動の激化と「日米地位協定」への改定
この協定による不平等な実態は、日本国民の間に強い不満を植え付け、各地で発生した米軍基地反対闘争や反米感情を刺激する要因となった。特に1953年には、刑事裁判権に関する規定が一部改定(公務外の犯罪については日本側が第一次裁判権を持つとする原則に変更)されたものの、米軍が「公務中」と証明すれば日本側に裁判権が及ばない仕組みは残り、実質的な特権構造は維持された。その後、1960年の岸信介内閣による安保改定にともない、日米行政協定は発展的に解消され、新たに「日米地位協定」へと改定される。しかし、名称が変わった後も米軍の特権や基地問題の本質は解決されず、現代の沖縄米軍基地問題をめぐる議論へと地続きでつながっている。