GATT(関税および貿易に関する一般協定) (がっと(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい)
【概説】
関税の引き下げや輸出入制限の撤廃により、国際的な自由貿易体制を維持・推進することを目的とした多国間協定。第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制を貿易面から支える柱として1948年に発効し、日本は1955年に加盟して高度経済成長の基盤を築いた。
GATT成立の歴史的背景と基本原則
1930年代に各国が排他的なブロック経済を形成したことが、世界経済を停滞させ第二次世界大戦を引き起こす一因となった。その反省から、戦後の国際社会はIMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行)による通貨・金融体制、いわゆるブレトン・ウッズ体制を構築した。貿易面では当初「国際貿易機構(ITO)」の設立が構想されたが、各国の批准が得られず頓挫したため、1947年に先行して署名(1948年に発効)されていたGATTが、実質的な国際機関として機能することとなった。
GATTの基本理念は、「自由」(関税の引き下げと数量制限の撤廃)、「無差別」(最恵国待遇と内国民待遇の付与)、「多角主義」の三本柱から成る。加盟国同士が多国間交渉(ラウンド)を重ねることで、世界的な貿易の拡大と経済成長を目指した。
日本のGATT加盟と国際社会への復帰
1952年のサンフランシスコ平和条約発効により主権を回復した日本にとって、資源に乏しく加工貿易を通じた経済自立を目指すうえで、国際市場への参加は不可欠であった。日本は1952年にGATTへの加盟を申請し、1955年に正式加盟を果たした。
しかし、戦前の日本製品によるソーシャル・ダンピング(低賃金を背景とした不当廉売)に対する欧州諸国の警戒感は根強く、イギリスやフランスなど多くの国がGATT第35条(特定国間における協定の適用除外)を援用し、日本に最恵国待遇を与えなかった。そのため日本政府は、二国間交渉を粘り強く重ねて第35条適用の撤回を求める外交努力を余儀なくされ、完全な形での平等待遇を獲得するまでには長い時間を要した。
貿易・資本の自由化と高度経済成長
1960年、池田勇人内閣は「貿易・為替自由化大綱」を策定し、本格的な開放経済体制への移行を目指した。その結果、1963年には国際収支の悪化を理由とした輸入制限ができない「GATT第11条国」へ移行し、翌1964年にはIMF8条国への移行とOECD(経済協力開発機構)への加盟を達成した。これにより、日本は名実ともに先進国クラブの仲間入りを果たした。
また、この時期にGATTの下で進められた大規模な多角的貿易交渉である「ケネディ・ラウンド」(1964〜1967年)では、鉱工業品の大幅な関税一括引き下げが合意された。これが日本の輸出拡大を強力に後押しし、未曾有の高度経済成長を牽引する最大の外的要因の一つとなった。
貿易摩擦の激化とWTO体制への発展
1970年代以降、日本の圧倒的な輸出競争力はアメリカや欧州諸国との間で激しい貿易摩擦を引き起こした。GATT体制下で関税障壁の削減は進んだものの、各国の複雑な非関税障壁や、従来の枠組みでは対応できない農産物、サービス貿易、知的財産権といった新たな課題が浮上した。
これらを包括的に協議するため、1986年から「ウルグアイ・ラウンド」が開始された。この交渉において、日本は国内外からの強い圧力に直面し、激しい国内農家の反発を受けながらも、1993年(細川護熙内閣時)にコメの市場開放(部分開放・ミニマムアクセスの受け入れ)を受諾した。
ウルグアイ・ラウンドの合意により、GATTの枠組みは限界を迎えて発展的に解消された。そして1995年、より強力な紛争解決機能と法的拘束力を持つ世界貿易機関(WTO)が設立され、国際経済は新たな多角的貿易体制へと移行したのである。