ソ連(冷戦期)

第二次大戦後、東欧諸国などを勢力下に置き、社会主義陣営(東側諸国)の盟主としてアメリカと対立した超大国はどこか?
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★★★★

ソ連(冷戦期)

1945年 – 1991年

【概説】
第二次世界大戦後、社会主義陣営の盟主として資本主義陣営のリーダーであるアメリカと激しく対立した超大国。冷戦構造という世界規模の枠組みの中で、日本の占領政策の転換や独立後の外交政策に多大な影響を与え、日本史においても戦後政治・外交の方向性を規定する重要な存在となった。

冷戦の激化とアメリカの対日政策転換

第二次世界大戦終結後、連合国として共同歩調をとっていたアメリカとソ連は、間もなくイデオロギーや勢力圏をめぐって激しい対立状態、すなわち冷戦へと突入した。ソ連は東ヨーロッパ諸国をつぎつぎと社会主義化し、アジアにおいても1949年の中華人民共和国の成立や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国を強力に支援した。

こうしたソ連の台頭と共産主義勢力の拡大に強い脅威を抱いたアメリカは、日本に対する占領政策を根本から転換させることとなる。当初の徹底した「非軍事化・民主化」路線から、日本をアジアにおける「反共の防波堤」として位置づけ、経済復興と再軍備を推し進めるいわゆる「逆コース」へと舵を切ったのである。1950年に勃発した朝鮮戦争において、ソ連は背後から北朝鮮を支援したが、この戦争は日本に特需をもたらすと同時に、警察予備隊(のちの自衛隊)の創設やレッドパージ(共産主義者の公職追放)を引き起こし、日本の戦後史の針路を決定づける要因となった。

講和問題をめぐる対立とサンフランシスコ平和会議

1951年、日本の主権回復をめぐる講和会議がサンフランシスコで開催された。日本国内においては、ソ連や中国を含むすべての交戦国との講和を目指す「全面講和論」と、アメリカを中心とする自由主義陣営のみとの講和を急ぐ「単独講和論(多数講和論)」が国論を二分する激しい議論を呼んでいた。

当時の吉田茂内閣はアメリカとの単独講和を選択し、サンフランシスコ平和条約に調印した。しかし、会議に出席したソ連の代表団は、条約案がアメリカ主導であり、中華人民共和国が招かれていないことや、自国の安全保障上の懸念などを理由に条約への調印を拒否した。これにより、日本とソ連の法的な戦争状態は継続することとなり、日本は西側陣営の一員として冷戦構造に完全に組み込まれることとなったのである。

日ソ共同宣言と国交回復

サンフランシスコ平和条約で調印を見送ったソ連との国交正常化は、戦後日本外交における最大の懸案事項として残された。1953年のスターリン死去後、ソ連が「平和共存」路線を打ち出すと、日本でも保守合同により誕生した鳩山一郎内閣が「自主外交」を掲げ、日ソ国交回復に強い意欲を示した。

両国間の交渉において最大の障壁となったのは北方領土問題であった。ソ連側は歯舞群島および色丹島の2島引き渡しによる決着を提案したが、日本側は国後島・択捉島を含む4島の一括返還を主張し、交渉は難航した。最終的に領土問題の解決は平和条約締結時まで先送りされたものの、1956年10月に日ソ共同宣言がモスクワで調印され、両国間の戦争状態は終結し国交が回復した。この宣言により、ソ連は日本の国際連合加盟に対する拒否権の発動を取り下げ、同年12月、日本は悲願の国連加盟を果たして国際社会への本格的な復帰を完了させた。

冷戦末期の動向とソ連の崩壊

国交回復後の日ソ関係は、シベリア開発協力や北洋漁業交渉などを通じて一定の経済的関係が築かれたものの、冷戦の枠組みの中での政治的な冷え込みは続いた。特に1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻や北方領土における軍備強化は、日本の対ソ感情を著しく悪化させた。

しかし、1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、「ペレストロイカ(改革)」と「新思考外交」を推し進めると、冷戦は終結へと向かう。1991年4月にはゴルバチョフがソ連の最高指導者として初めて訪日し、日ソ共同声明において北方領土問題が存在することを公式に認めた。だが同年12月、ソ連は劇的な崩壊を遂げ、その国際的地位と条約上の権利義務はロシア連邦へと引き継がれた。冷戦期を通じて日ソ間に立ちはだかった平和条約締結および北方領土問題は未解決のまま、ポスト冷戦時代の日露関係へと持ち越されることとなったのである。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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