昭和天皇
【概説】
昭和時代の第124代天皇(在位1926〜1989)。諱は裕仁。戦前・戦中は大日本帝国憲法下において国家の主権者および陸海軍の大元帥として在位し、敗戦後の日本国憲法下においては日本国および日本国民統合の「象徴」へと法的位置づけを転換した。激動の20世紀日本における最大の転換期を体現した存在である。
誕生から即位まで
1901年(明治34年)、大正天皇と貞明皇后の第1男子として誕生した。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)である。乃木希典学習院院長や東郷平八郎東宮御学問所総裁らの教育を受けて育ち、1921年(大正10年)には皇太子として初めてヨーロッパ外遊を経験した。この外遊でイギリス王室の立憲君主制に深い感銘を受けたことが、後の天皇としての政治的姿勢に多大な影響を与えた。
同年、父・大正天皇の病状悪化に伴い、20歳で摂政に就任する。関東大震災(1923年)や虎ノ門事件などの国難・危機に対応する中で君主としての経験を積み、1926年(大正15年)末の大正天皇崩御に伴って第124代天皇に即位、元号を「昭和」と改めた。
激動の昭和初期と大元帥としての苦悩
即位直後の昭和初期は、国内では政党政治の行き詰まりや昭和恐慌、対外局面では満州事変(1931年)の勃発など、内外ともに極めて不安定な状況が続いた。大日本帝国憲法下において、天皇は国の元首にして統治権の総攬者であり、陸海軍の統帥権を持つ大元帥と位置づけられていた。しかし、立憲君主としての自覚が強かった昭和天皇は、「君臨すれども統治せず」の原則に従い、政府や軍部の決定事項に対して自らの意思で介入や拒否をすることを極力控えた。
その例外的な介入の一つが、1936年(昭和11年)の二・二六事件である。急進的な青年将校らが重臣を暗殺して首都の中枢を占拠した際、軍首脳部が反乱軍の鎮圧に逡巡する中、天皇は「自ら近衛師団を率いて鎮圧にあたる」という激しい怒りを示し、反乱軍の早期鎮圧を厳命した。しかしその後、軍部の台頭を抑え切ることはできず、日中戦争から太平洋戦争へと泥沼の戦争状態に突入していく過程で、最高権力者としての立場と立憲君主としての振る舞いの間で深い苦悩を強いられることとなった。
敗戦の決断と「聖断」
1945年(昭和20年)、戦局が絶望的となり本土空襲や原爆投下、ソ連の対日参戦が続く中で、ポツダム宣言受諾を巡る最高戦争指導会議は降伏派と本土決戦派で真っ二つに割れ、機能不全に陥った。この時、鈴木貫太郎首相からの異例の要請を受けた昭和天皇は、国体護持と国民の救済を優先し、自らの意思で戦争終結の決断を下した。これがいわゆる「聖断」である。
同年8月15日、自らの肉声による玉音放送を通じて国民に終戦を詔じ、日本の無条件降伏が決定づけられた。国家存亡の極限的な危機において天皇が直接政治的決断を下したこの出来事は、近代日本政治史において極めて特異であり、同時に日本を破滅から救った歴史的意義を持つ。
新憲法と「象徴天皇」への転換
敗戦後の1946年(昭和21年)元日、天皇は新日本建設に関する詔書、いわゆる「人間宣言」を発し、自らが現人神(あらひとがみ)であることを否定した。同年公布され翌年施行された日本国憲法において、天皇は主権者から「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」へとその法的な位置づけを根本的に変えることとなった。
占領下における最大の政治的課題は、天皇の戦争責任を巡る問題であった。連合国側の一部からは天皇の戦犯訴追を求める声も強かったが、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、日本の占領統治を円滑に進め、共産主義の防波堤とするために天皇制の存続が不可欠であると判断した。昭和天皇自身も、全国各地の戦災地を慰問する全国巡幸を精力的に行い、敗戦に打ちひしがれた国民を直接励ました。この巡幸を通じて、国民と天皇の間に新たな親愛関係が構築され、戦後の象徴天皇制が民主主義社会において定着していく重要な契機となった。
昭和の終焉と歴史的評価
戦後復興から高度経済成長期を経て、日本が国際社会に復帰し経済大国へと成長していく過程においても、昭和天皇は国民精神の支柱として存在し続けた。1964年(昭和39年)の東京オリンピックや1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)の開会宣言など、平和国家としての歩みを象徴する場に立ち続けた。また公務の傍ら、海洋生物学や植物学の分野において生物学者としても地道な研究を続け、ヒドロ虫類に関する分類学などで世界的にも評価される著作を残した側面も特筆される。
1989年(昭和64年)1月7日、87歳で崩御した。在位期間は62年余りに及び、神話時代を除けば歴代天皇の中で最長である。大日本帝国憲法下の絶対君主から日本国憲法下の象徴天皇へという、日本近現代史の最もドラスティックな転換期を生き抜き、その変化を一身に体現した。開戦責任や戦争指導についての議論は今日でも歴史学上の重要なテーマであるが、敗戦処理と戦後の平和国家建設において果たした役割は極めて大きく、近代日本を語る上で欠かすことのできない最重要人物である。