震災手形
【概説】
1923年(大正12年)の関東大震災によって決済不能となり、民間銀行が抱え込むことになった不良手形。政府と日本銀行による救済策が講じられたものの処理は難航し、のちの昭和金融恐慌を引き起こす直接的な契機となった昭和初期の重大な経済問題である。
震災手形の発生と日銀の救済措置
1923年9月1日に発生した関東大震災は、首都圏の経済網に壊滅的な打撃を与えた。多くの企業や商店が被災し、工場や店舗、帳簿などを焼失したため、震災前に取引関係で振り出していた手形(約束手形や為替手形)の決済が不可能となった。手形を割り引いて資金を融通していた民間銀行は、このままでは手形の不渡りによって連鎖的に倒産しかねない危機に直面した。
事態を重く見た山本権兵衛内閣は、30日間の私法上の金銭債務の支払いを猶予する支払猶予令(モラトリアム)を発令した。さらに、決済不能となった手形を「震災手形」に指定し、日本銀行がこれらを再割引(担保として受け入れ資金を融通すること)する救済策を実施した。政府は日銀が被る損失のうち、1億円を限度として補償することを約束し、金融システムの破綻を一時的に回避することに成功した。
不良債権の累積と「政治手形」化
当初、震災手形の処理期限は2年間とされていたが、震災後の景気低迷や企業の業績不振により回収は遅れ、期限は2度にわたって延長された。この未処理のまま累積した震災手形の中には、震災の直接的な被害とは無関係な、1920年の戦後恐慌の時点で事実上破綻しかけていた企業の不良債権が「震災手形」の名目で多数紛れ込んでいた。
特に、神戸の総合商社である鈴木商店や、そのメインバンクであった準中央銀行の台湾銀行などが抱える膨大な不良債権が、震災手形として救済され続けていた。これらは実質的に回収不可能な「政治手形」と化しており、金融界の健全性を著しく蝕む温床となっていた。
金融恐慌への発展
1927年(昭和2年)、若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣は、これ以上の問題先送りは不可能と判断し、国費を投じて震災手形を補償・整理するための「震災手形関連法案」を衆議院に提出した。しかし、野党の立憲政友会などは政府の失政や台湾銀行・鈴木商店への特権的な融資(政財界の癒着)を厳しく追及し、国会審議は激しい政争の場と化した。
この緊迫した審議の最中、片岡蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」と失言したことをきっかけに、預金者の不安が一気に爆発した。各地の銀行で預金の払い戻しを求める取り付け騒ぎが発生し、鈴木商店の破綻、台湾銀行の臨時休業へと連鎖して、日本経済は昭和金融恐慌へと突入することとなった。震災手形問題の政治的妥協と処理の遅れが、最終的に大恐慌を招く引き金となったのである。