社会民衆党 (しゃかいみんしゅうとう)
【概説】
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて活動した、日本初の合法的な無産政党(右派)の一つ。安部磯雄や吉野作造らを指導者とし、共産主義を排除する「反極左」と議会主義に基づく穏健な労資協調路線を掲げた。
無産政党運動の分裂と社会民衆党の結成
1925(大正14)年に普通選挙法が制定されると、新たに選挙権を得た労働者や農民の利益を代弁する「無産政党」の結成運動が本格化した。しかし、当時の社会運動はロシア革命の影響を受けた共産主義(左派)から、温和な社会民主主義(右派)にいたるまで思想的な幅が広く、足並みを揃えることは困難であった。
最初の単一無産政党として企画された農民労働党が即日結社禁止処分に追い込まれた後、無産政党運動は左右に分裂した。その中で、共産主義的な急進主義を嫌う最も穏健な右派勢力が、労働組合の日本労働総同盟(総同盟)右派などを基盤として、1926(大正15)年12月に結成したのが社会民衆党である。
「反極左・議会主義」の穏健右派路線
社会民衆党の初代委員長(総理)には、人道主義的社会主義者で早稲田大学教授の安部磯雄が就任し、教務執行委員には大正デモクラシーを牽引した吉野作造や、後に首相となる片山哲、労働運動家の鈴木文治らが名を連ねた。彼らは階級闘争による暴力革命を否定し、議会政治を通じて合法的かつ漸進的に社会改良を目指す「議会主義」を徹底した。
同党は、マルクス主義やコミンテルンの影響を拒絶する「反極左」の姿勢を鮮明にし、資本主義の枠内での労資協調を唱えた。このため、内務省などの治安当局や支配層からも比較的「穏健な健全野党」として容認され、都市のホワイトカラー(俸給生活者)や、知識人、穏健な労働者層から広範な支持を集めることに成功した。
普通選挙への挑戦と社会大衆党への合流
1928(昭和3)年、日本初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙において、社会民衆党は安部磯雄を含む4名の当選者を出し、分裂した無産政党の中では最多の得票数(約12万票)を獲得した。しかし、1929年に発生した世界恐慌とそれに続く昭和恐慌のなかで社会の閉塞感が強まると、党内には軍部の台頭に同調する「国家社会主義」的な右傾化路線へと傾くグループ(赤松克麿ら)も現れ、党内分裂を引き起こした。
こうした混乱と無産政党の弱体化への危機感から、1932(昭和7)年、社会民衆党は中間派の全国労農大衆党と合同し、新たに社会大衆党を結成した。これにより社会民衆党は発展的解消を遂げたが、その穏健な社会民主主義思想と右派の系譜は、戦後の日本社会党右派、さらには民主社会党へと引き継がれていくこととなった。