橋本欣五郎

高校日本史的重要度
★

【参考リンク】
橋本欣五郎(Wikipedia)

欣

「欣」の書き方

橋本欣五郎 (はしもときんごろう)

1890年 – 1957年

【概説】
昭和初期に陸軍内の過激派若手将校組織「桜会」を結成し、国家改造を目指してクーデター未遂事件を繰り返した陸軍将校。満州事変の勃発や軍部の政治的台頭の急先鋒となった人物。

「桜会」の結成と相次ぐクーデター画策

昭和恐慌下の社会不安と政党政治への不信が高まる中、陸軍中堅幕僚であった橋本欣五郎は、軍部独裁による国家改造(軍部政権の樹立)を強く志向するようになった。1930年(昭和5年)、橋本は参謀本部の若手将校らを中心とした秘密結社「桜会(さくらかい)」を結成し、その指導権を握った。

橋本は民間右翼の大川周明らと結託し、1931年(昭和6年)3月に社会主義者や右翼を利用して騒擾を起こし、軍部政権を樹立しようとする三月事件を画策した。これが未遂に終わると、同年10月にはさらに過激な首相暗殺や全閣僚逮捕を伴うクーデター計画である十月事件を首謀した。いずれも事前に露見して不発に終わったものの、これらの事件は軍部が政治に直接介入する軍部ファシズム運動の起点となり、同年に勃発した満州事変の急進的な展開や、後の五・一五事件、二・二六事件へと繋がる不穏な潮流を作り出した。

日中戦争期における強硬姿勢と戦後の東京裁判

クーデター計画の失敗によって左遷された橋本であったが、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると前線に復帰した。南京攻略戦に従軍した際、揚子江上でイギリス艦船を砲撃するレディバード号事件(およびアメリカ艦船を爆撃したパナイ号事件)を引き起こし、対米英への強硬姿勢を示して国際的摩擦を生じさせた。

その後、大日本赤誠会を組織して大政翼賛会運動へ合流し、衆議院議員として東条英機内閣の戦争遂行体制を支持した。敗戦後は連合国軍からA級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判(東京裁判)において共同謀議の罪で終身禁錮刑の判決を受けた。彼の足跡は、大正デモクラシーから軍国主義へと急速に変貌していく昭和初期の日本の過激な軍部暴走を象徴している。

最終更新:
2026年8月12日 @ 16:39

日本史一問一答(ランダム)

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