三月事件 (さんがつじけん)
【概説】
1931(昭和6)年3月に陸軍中堅将校の秘密結社「桜会」が民間右翼と結託して画策した、軍部政権樹立を目指すクーデター未遂事件。陸軍大臣の宇垣一成を首班に擁立しようとしたが、宇垣直前の反対により実行直前で中止された。昭和初期における軍部の政治進出と、その後のファシズム台頭の端緒となった事件である。
「桜会」の結成と国家改造の機運
1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌は、日本社会に深刻な経済的困窮をもたらし、とりわけ農村部の疲弊は限界に達していた。こうした状況下、既成政党による政権担当能力への不信や、協調外交(幣原外交)に対する不満が急進的な若手軍人の間で高まっていった。1930(昭和5)年9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐らを中心として、陸軍の中堅将校らによる秘密結社「桜会(さくらかい)」が結成される。彼らは、腐敗した政党政治を打破し、軍部主導による「国家改造」と「満蒙問題の解決(大陸進出)」を進めるべきであるという過激な思想を共有していた。
クーデター計画の全貌と急転直下の挫折
桜会は、民間右翼の国家主義者である大川周明らと結託し、具体的なクーデター計画を練り上げた。その内容は、大川らが便乗・扇動した社会主義者や労働者の暴動を東京で発生させ、これを鎮圧するという名目で戒厳令を敷き、議会を包囲・解散させて、陸軍大臣の宇垣一成大将を首班とする軍部独裁政権を樹立するというものであった。計画は秘密裏に進められ、宇垣陸相自身も当初は計画を黙認していたとされる。しかし、政権奪取の現実味を帯びるにつれ、宇垣は暴動を利用したクーデターという強硬手段が軍の統制を乱すことや、時期尚早であることを懸念し、実行直前に計画への参加を拒絶した。これにより後ろ盾を失った首謀者たちは、3月20日に予定されていた蜂起の断念を余儀なくされた。
不問に付された罪と軍部独走への影響
事件の発覚後、陸軍首脳部は軍の威信低下や政治的問題化を恐れ、首謀者である橋本欣五郎らを軽い謹慎処分にとどめ、事実上事件を闇に葬った。この極めて寛大な処置は、軍部内の不穏分子に「未遂であれば処罰されない」という誤った認識を与える結果となり、軍の統制を決定的に弱めることとなった。事実、この半年後の10月には、再び荒木貞夫らを擁立しようとした十月事件が画策され、さらに満州では満州事変が勃発することになる。三月事件は、大正デモクラシー期の政党政治が終焉に向かい、日本が軍国主義の道を歩み始める契機となった歴史的象徴である。