満州事変
【概説】
1931年の柳条湖事件を契機とし、関東軍が政府の不拡大方針を無視して満州(中国東北部)全土を武力占領した一連の軍事行動。日本の傀儡国家である満州国の建国へと至り、日本の国際的孤立と軍部台頭を決定づけた重大な事件である。
事変勃発の背景と関東軍の思惑
1920年代後半から1930年代初頭にかけて、日本は昭和金融恐慌や世界恐慌による深刻な経済危機(昭和恐慌)に直面していた。国内の農村は困窮し、社会的閉塞感が漂う中、資源が豊富で「日本の生命線」と位置づけられていた満州(中国東北部)の権益確保への関心が急速に高まっていった。一方、中国では蔣介石による北伐が完了して全国統一が進み、国民政府による強固な国権回復運動が満州にも波及していた。これにより、日露戦争以来日本が維持してきた満蒙権益が脅かされる事態となっていた。
こうした状況下で、満州に駐留していた日本陸軍の部隊である関東軍は、危機感を募らせていた。特に関東軍の作戦参謀であった石原莞爾や板垣征四郎らは、将来想定される対ソビエト連邦・対アメリカ戦に備えるための高度国防国家建設を構想し、武力による満州の直接領有を秘密裏に画策し始めたのである。
柳条湖事件と政府方針の無視
1931(昭和6)年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖において、日本の国策会社である南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破される事件が発生した(柳条湖事件)。関東軍はこれを「中国軍(張学良軍)の犯行」と断定し、それを口実として直ちに軍事行動を開始、翌日には奉天などの主要都市を占領した。しかし、実際の爆破は関東軍自身の自作自演であった。
当時の第2次若槻礼次郎内閣は、国際社会の反発を懸念してただちに「不拡大方針」を声明した。ところが、関東軍はこれを完全に無視して戦線を拡大し続けた。さらに、朝鮮に駐留していた日本軍(朝鮮軍)が政府や陸軍中央の許可を得ずに独断で国境を越え、関東軍の増援に向かうという異常事態も発生した。政府の統制力は及ばず、軍部が統帥権の独立を盾に独断専行を繰り返す「下克上」の事実が露呈し、事態の収拾に失敗した若槻内閣は総辞職に追い込まれた。
満州国の建国と国際連盟の対応
1932(昭和7)年3月、関東軍は清朝最後の皇帝であった溥儀を執政(のちに皇帝)に迎え、日本の傀儡国家である満州国の建国を宣言した。同年5月に発生した五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると、大正時代から続いた政党内閣の歴史は終焉を迎え、次に成立した斎藤実内閣は満州国を正式に承認した。
一方、中国の提訴を受けた国際連盟は、イギリス人のリットンを団長とする調査団を現地へ派遣した。提出された報告書(リットン報告書)は、日本の満鉄における特殊権益などは認めたものの、一連の軍事行動を自衛権の発動とは認めず、満州国の建国も否認した。1933(昭和8)年2月、国際連盟総会でこの報告書が圧倒的多数で採択されると、日本全権の松岡洋右らは議場を退場し、翌3月に日本は国際連盟からの脱退を通告した。同年5月に日中両軍間で塘沽停戦協定が結ばれたことで、満州事変は一応の軍事的終結を見た。
歴史的意義と十五年戦争への道程
満州事変は、日本の近代史において決定的な転換点となった事件である。国内においては、政府の方針を軍部の独断が覆す悪しき前例を作り出し、軍部の政治的発言力が極めて強大化する契機となった。政党政治は後退し、テロリズムや軍部による政治介入が常態化する時代へと突入していった。
また対外的には、国際連盟脱退によってワシントン体制・ヴェルサイユ体制といった第一次世界大戦後の国際秩序から自ら離脱し、日本は国際的孤立の道を歩むことになった。さらに、この事変によって生み出された日中の対立構造は解消されることなく、1937年の盧溝橋事件を契機とする日中戦争、ひいては太平洋戦争へと拡大していくことになる。このため満州事変は、1945年の敗戦まで続く長い泥沼の戦争状態、いわゆる十五年戦争の起点として極めて重要な歴史的意義を持っている。