リットン調査団
【概説】
満州事変の真相を調査し、日中間の紛争解決策を策定するために、国際連盟が派遣した調査委員会。イギリスの元インド総督リットンを団長とし、日本の軍事行動を自衛権の発動とは認めず満州国を否認する一方で、満州における日本の特殊権益には一定の配慮を示す報告書を提出した。
派遣の背景と満州事変
1931(昭和6)年9月、日本の関東軍が引き起こした柳条湖事件を契機に満州事変が勃発すると、中国の国民政府(蔣介石政権)はただちに国際連盟に提訴した。国際連盟理事会では日本の軍事行動に批判が集まったが、日本側は国際社会の干渉を和らげると同時に、事態の収拾と既成事実化に向けた時間稼ぎを意図し、自ら現地調査団の派遣を提案した。この提案に基づき、1931年12月の連盟理事会において、満州における紛争の真相調査を目的とする調査団の設立が決議された。
調査団の構成と現地調査
調査団は、イギリスの元インド総督であるヴィクター・ブルワー=リットン卿を団長とし、アメリカ・フランス・イタリア・ドイツの5か国の代表委員から構成された。当時国際連盟の非加盟国であったアメリカからも委員(マッコイ少将)が参加していたことは、国際社会がいかに満州問題に強い危機感を抱いていたかを示している。調査団は1932年2月末に日本に到着して政府首脳と会談した後、中国本土および満州に赴き、約半年にわたって現地調査と関係者への聴取を行った。しかし、調査団が活動中であった同年3月に、関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀を執政とする満州国の建国を一方的に宣言し、満州の分離独立という既成事実化を強引に推し進めていた。
リットン報告書の妥協的性格
1932年10月に公表された調査結果(リットン報告書)の内容は、当時の複雑な国際情勢を反映したものであった。報告書は、関東軍の軍事行動を「正当な自衛措置とは認められない」と退け、満州国の建国についても「自発的な独立運動によるものではない」としてその承認を明確に拒否した。しかしその一方で、満州における日本の条約上の特殊権益そのものは正当なものとして認定した。その上での解決策として、満州を非武装地帯とした上で、中国の主権下において外国人顧問の指導による広範な自治政府を樹立することを勧告した。これは、日本の顔を一定程度立てつつ中国の主権も尊重するという、極めて妥協的かつ現実的な折衷案であった。
日本の反発と国際連盟脱退
リットン報告書は国際連盟としては最大限に日本に配慮した内容であったが、強硬論に傾いていた当時の日本の世論と軍部はこれを断固として拒絶した。日本政府は報告書が公表される直前の1932年9月に日満議定書に調印して満州国を正式に承認しており、自ら後戻りできない状況を作り出していた。1933(昭和8)年2月、ジュネーブの国際連盟特別総会において、リットン報告書を基礎とする「中日紛争に関する報告書」が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で圧倒的多数により可決されると、日本全権の松岡洋右らは議場から退場した。翌3月、日本は正式に国際連盟からの脱退を通告し、国際的な孤立の道を歩み始めることとなった。この一連の事態は、第一次世界大戦後に築かれた国際協調体制(ヴェルサイユ・ワシントン体制)の崩壊の始まりを告げる歴史的な転換点となったのである。