第1次上海事変 (だいいちじしゃんはいじへん)
【概説】
1932年1月に中国の上海で発生した、日本軍と中国軍による武力衝突事件。前年に勃発した満州事変に対する欧米列強の監視の目を逸らし、日本の満州支配(満州国建国)を円滑に進めるための軍事謀略として引き起こされた。
満州事変の「目くらまし」としての勃発背景
1931年9月に勃発した満州事変において、日本の関東軍は中国東北部(満州)の占領を急速に進めていた。この日本の独断的な行動に対し、中国政府(国民政府)の提訴を受けた国際連盟や、九カ国条約の当事国であるアメリカ・イギリスなどの欧米列強は、日本への批判を強めていた。
特に関東軍が計画していた「満州国」の建国を目前に控え、日本側は国際社会の厳しい視線を満州から逸らす必要に迫られていた。こうした状況下、奉天特務機関の板垣征四郎の依頼を受けた上海駐在の陸軍公使館付武官・田中隆吉らが謀略を画策した。1932年1月18日、上海において日本人日蓮宗僧侶らが襲撃される「日本人僧侶襲撃事件」を画策・誘発し、これを契機に上海の日本人居留民による排日暴動や日中両国市民の衝突を激化させた。日本側は居留民保護を名目に海軍陸戦隊を派遣し、1月28日に中国の第十九路軍(蔡廷鍇軍長)との間で本格的な戦闘が開始された。
激戦の展開と国際社会の反応
上海は欧米列強の権益が集中する「国際共同租界」を抱える中国最大の経済都市であったため、満州での局地的な衝突とは異なり、イギリスやアメリカをはじめとする列強は強い警戒感を示した。日本軍は当初、海軍の陸戦隊のみで容易に上海を制圧できると見込んでいたが、防衛に不退転の決意で臨んだ中国第十九路軍の頑強な抵抗に遭い、苦戦を強いられた。
事態を重く見た日本政府(犬養毅内閣)は、急遽陸軍から三個師団以上の大軍(司令官・白川義則大将)を増援として派遣し、戦線は上海周辺全域へと拡大した。この戦闘では空襲や重火器が使用され、日中両軍に多大な死傷者が出ただけでなく、多くの中国人市民が犠牲となり、国際的な日本批判はさらに高まることとなった。
事変の解決と「満州国」建国への影響
3月に入り、兵力を増強した日本軍が上海周辺の中国軍を退けると、日本側はこれ以上の戦線拡大を避けるため、国際連盟の仲介による和平交渉に応じた。同年5月5日、日中両国は上海停戦協定を締結し、日本軍は撤退して上海周辺は非武装化された。なお、この停戦協定調印の直前である4月29日、上海の虹口公園で行われた天長節祝賀式の最中、朝鮮人独立運動家の尹奉吉による爆弾テロ事件(虹口公園爆弾事件)が発生し、白川義則司令官らが重傷を負い(後に死亡)、重光葵公使らが重傷を負う事態も起きている。
この第1次上海事変の最大の政治的目的は、列強の関心を上海に釘付けにしている間に、満州において3月1日に「満州国」の建国宣言を強行することであった。この関東軍の目論見は事実上成功し、国際連盟のリットン調査団が満州に到着する前に既成事実を作り上げる結果となった。この事件は、日本が軍事力によって国際協調を破綻させ、泥沼の日中戦争(1937年の第2次上海事変など)へと突き進む歴史的転換点の一つとなった。