井上日召 (いのうえにっしょう)
【概説】
昭和初期に活動した日蓮宗系の右翼運動家。民間テロ組織「血盟団」を組織し、「一人一殺」の合言葉のもとに政財界の要人暗殺を指導した人物である。
1. 満州での活動と日蓮宗への傾倒
井上日召(本名:昭二)は群馬県に生まれ、青年期に中国大陸へと渡った。南満州鉄道(満鉄)の嘱託などとして情報収集活動に従事する「大陸浪人」としての生活を送るなかで、独自の国家観を養った。帰国後、精神的な葛藤を経て日蓮宗の信仰に深く傾倒し、独自の国家革新思想を抱くようになる。
1928年、日召は茨城県大洗町の「護国堂」に拠点を移し、布教活動を開始した。当時の日本は世界恐慌の影響を受け、特に農村部において深刻な飢饉や貧困が広がる昭和恐慌のただ中にあった。日召は、農村の窮状を救うためには、天皇親政のもとで国家の抜本的な改造を行うべきであると確信し、地元の農村青年や急進的な青年将校らとの結びつきを強めていった。
2. 「一人一殺」の教義と血盟団の結成
日召は、現状の腐敗した既成政党や財閥、特権階級を打倒するためには武力行使による破壊が不可欠であると考え、「一殺多生(一つの生命を奪うことで、多くの民衆を生かす)」という宗教的信念に基づく「一人一殺」を提唱した。これにより、自らが指導者となり、血気盛んな農村青年や大学生らを集めてテロ組織「血盟団」を結成した。
1932年初頭、日召の指示のもとで具体的な暗殺計画が実行に移された(血盟団事件)。同年2月には民政党の幹部で前大蔵大臣の井上準之助が、続く3月には三井財閥の総帥である団琢磨が、それぞれ血盟団のメンバーによって暗殺された。これにより、政財界は大きな恐怖と混乱に陥った。
3. 軍部台頭への影響と歴史的意義
事件後に日召は自首し、後に無期懲役の判決を受けた(戦時中に特赦により釈放)。しかし、彼が指導した血盟団のテロは一過性の事件にとどまらず、同年に発生した海軍青年将校らによる五・一五事件へと直結することとなった。五・一五事件の実行犯には血盟団の思想に共鳴した者も多く、犬養毅首相の暗殺をもって大正デモクラシー期から続いた政党政治は終焉を迎えることとなった。
井上日召の活動は、近代日本においてテロリズムが政治を動かす手段として肯定される不穏な土壌を作り、結果として軍部台頭とファシズム化を加速させる決定的な引き金となった点で、極めて重い歴史的意味を持っている。