五・一五事件

1932年に海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺し、「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代を終わらせた事件は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

五・一五事件

1932年

【概説】
1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校を中心とする急進派や民間右翼らが起こした武装クーデター未遂事件。時の内閣総理大臣である犬養毅が暗殺され、大正デモクラシー期から続いていた政党内閣時代(「憲政の常道」)が終焉を迎える決定的な契機となった。

軍部の不満と急進的な国家改造運動

1920年代末から1930年代初頭の日本は、昭和恐慌やそれに伴う深刻な農業恐慌によって極度の社会不安に見舞われていた。こうした中、既存の政党政治は政争に明け暮れ、財閥と癒着して国民の窮状を顧みないとして、軍部や右翼からの激しい批判を浴びていた。さらに1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の調印は、統帥権干犯問題を引き起こし、海軍内の強硬派や青年将校の間に政府に対する強い不満を植え付けた。

同時代には、石原莞爾ら関東軍による満州事変(1931年)が勃発し、軍部の独断専行が事実上黙認される風潮が生まれていた。国内でも、井上日召が率いる民間右翼団体が前蔵相の井上準之助や三井合名理事長の団琢磨を暗殺した血盟団事件(1932年2〜3月)が起こるなど、暴力的な手段によって腐敗した特権階級を打倒し、天皇親政を実現しようとする「国家改造運動」が激化していた。五・一五事件は、こうした時代の狂気と軍部の政治介入が結びついた必然的な帰結であったと言える。

事件の勃発と犬養毅暗殺

1932年5月15日、三上卓や古賀清志ら海軍青年将校に、陸軍士官学校の生徒、橘孝三郎ら農本主義を掲げる愛郷塾などの民間右翼が合流し、武装蜂起を決行した。彼らは数班に分かれ、首相官邸、内大臣(牧野伸顕)邸、立憲政友会本部、警視庁、日本銀行などを次々と襲撃した。

主目標とされた首相官邸では、決起部隊が侵入し、立憲政友会総裁であった犬養毅首相と対峙した。犬養は将校らを客間に案内し、「話せば分かる」と説得を試みたが、将校らは「問答無用、撃て」と叫び、首相を射殺した。しかし、彼らが期待した軍部高官の同調や大規模な軍事クーデターの誘発には至らず、後続部隊が現れなかったため、反乱部隊はまもなく憲兵隊に出頭し、事件は収束した。

「憲政の常道」の終焉と軍部の台頭

クーデター自体は失敗に終わったものの、五・一五事件が日本近代史に与えた衝撃と影響は計り知れない。最大の歴史的意義は、1924年(大正13年)の加藤高明内閣の成立以来、8年間にわたって定着していた「衆議院の多数党の党首が内閣を組織する」という「憲政の常道」が崩壊したことである。元老・西園寺公望は、政党政治の継続は困難と判断し、後継首相に穏健派の海軍大将である斎藤実を推奏した。これにより、政党出身者や官僚、軍人などが入り混じる挙国一致内閣(中間内閣)が成立し、戦後まで政党内閣が復活することはなかった。

また、事件後の軍法会議では、決起した青年将校らの動機が「国を憂う純粋な思いに基づくもの」であるとして、広く国民的な助命嘆願運動が巻き起こった。その結果、犯人に対する処罰は比較的寛大なものにとどまった。この「動機が純粋であれば、非合法なテロリズムやクーデターも許容される」という危険な社会風潮の容認は、軍部急進派のさらなる暴走を招き、わずか4年後の二・二六事件(1936年)を引き起こす土壌を形成した。五・一五事件は、日本の政党政治の息の根を止め、国家が本格的な軍国主義・ファシズムへと突き進む後戻りのできない転換点となったのである。

五・一五事件-海軍青年将校たちの「昭和維新」 (中公新書 (2587))

海軍青年将校たちの凶行を通じ、彼らが抱いた「昭和維新」という理想と混迷の時代の深層を解き明かす一冊。

世界史のなかの昭和史 (平凡社ライブラリー) (平凡社ライブラリー 905)

冷戦の構造からグローバルな視点を取り入れ、日本独自の特殊性を客観的かつ鋭い洞察で読み解く歴史の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 関八州の一つで、箱根の関所や小田原城があり、現在の神奈川県の大半を占める旧国名は何か?
Q. 将軍が江戸城を留守にする際の警備や、大名の人質の監督などを担当した役職は何か。
Q. 天明期に「四方赤良」の筆名で活躍し、狂歌を江戸の庶民から武士にまで大流行させた幕臣・文人は誰か?