相模(関八州) (さがみ かんはっしゅう)
【概説】
江戸幕府の拠点である関八州(関東地方の八か国)の一つで、現在の神奈川県の大部分に該当する令制国。東海道が通り、江戸湾(東京湾)の入り口に位置する地理的特性から、江戸の西の防衛線および海防の要衝として極めて重視された地域である。
関八州における相模国の位置づけと「西の防衛線」
徳川家康の関東入国以降、幕府は武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸の八か国を「関八州」と位置づけ、強固な支配体制を築いた。その中でも相模国は、江戸の政治・経済の中心部へ直結する東海道を擁し、西国大名に対する第一の防衛線としての役割を担った。
戦国時代に後北条氏の本拠地であった小田原には、要害の地である箱根の関所を背後に控える形で小田原藩が置かれた。ここには大久保氏など幕府の信任が厚い有力な譜代大名が配置され、江戸の西門を固める重要な軍事的拠点として機能した。
海防の最前線としての「浦賀奉行所」
江戸時代中期以降、日本近海に外国船が出没するようになると、江戸湾の入り口にあたる三浦半島の重要性が急速に高まった。1720(享保5)年、幕府は享保の改革の一環として、それまで伊豆の下田にあった奉行所を相模国の浦賀へと移転させ、浦賀奉行所を設置した。
浦賀奉行は、江戸に入る船舶の検問(船改め)や税の徴収を行うだけでなく、19世紀に入ると異国船の来航に対処する海防の最前線基地となった。1853年のペリー来航の際も、浦賀奉行所が交渉の窓口となり、その後の近代化に向けて横須賀製鉄所の建設へとつながるなど、相模国は日本の外交・防衛の転換点となる舞台となった。
錯綜する支配体制と大山詣に見る庶民文化
軍事・交通の要衝であった相模国は、小田原藩のほか、幕府直轄領(天領)や旗本領、さらには他国の諸大名の飛び地(相給支配)が複雑に入り組む支配構造を持っていた。これは、幕府が特定の勢力に相模国を一元支配させず、自らのコントロール下に置き続けるための防衛策でもあった。
一方で、平和が定着した江戸中期以降には、相模国中央に位置する大山への信仰が江戸の庶民の間で爆発的なブームとなった。いわゆる「大山詣(おおやままいり)」であり、多くの人々が大山街道を往来した。これは、軍事的な緊張感を持つ相模国が、同時に江戸の旺盛な消費・観光文化を支える密接な背後地でもあったことを示している。