政党内閣の崩壊
【概説】
1932年(昭和7年)の五・一五事件を契機として、1924年(大正13年)の加藤高明内閣以降続いていた「憲政の常道」に基づく政党政治が終焉を迎えたこと。この事件による犬養毅首相の暗殺後、海軍大将の斎藤実を首班とする挙国一致内閣が成立し、二大政党による政権交代の時代は幕を閉じた。
「憲政の常道」の確立と政党政治の展開
1924年(大正13年)、第二次護憲運動によって成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)以降、衆議院で多数を占める政党の党首が内閣を組織し、行き詰まれば野党の第一党に政権を譲るという慣例が定着した。これを「憲政の常道」と呼ぶ。以後8年間にわたり、立憲政友会と憲政会(のちの立憲民政党)という二大ブルジョア政党が交互に政権を担当し、普通選挙法の制定や幣原外交に代表される国際協調路線の推進など、大正デモクラシーの成果と呼べる政治が展開された。
経済的・外交的行き詰まりと政党への不信
しかし、1920年代末から1930年代にかけて、政党内閣は国内外の深刻な危機に直面することになる。経済面では、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌や1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌により、農村の極端な窮乏や中小企業の倒産、失業者の増大が引き起こされた。これに対し、当時の政党と特定の財閥との癒着や度重なる汚職事件は、国民の政党政治に対する強い不信感と幻滅を生み出した。
外交面においても、満蒙問題の解決と権益の死守を求める軍部や右翼勢力から、政党内閣が推進する国際協調外交(いわゆる「軟弱外交」)や軍縮路線(ロンドン海軍軍縮条約など)に対する非難が激化した。国家革新を掲げる青年将校や右翼は、政党や財閥を「国家のガン」とみなし、テロやクーデターによる国家改造を企図するようになっていった。
五・一五事件と犬養毅の暗殺
1931年(昭和6年)の満州事変勃発により、関東軍の独走を政府が追認せざるを得ない状況となり、政党内閣の無力化が露呈した。こうした中、1932年(昭和7年)5月15日、海軍の急進派青年将校らが首相官邸などを襲撃する五・一五事件が発生する。時の首相であった立憲政友会総裁の犬養毅は「話せば分かる」と説得を試みたが、凶弾に倒れた。犬養内閣は満州国の承認を留保するなど、軍部の暴走になおも歯止めをかけようと苦心していたが、このテロリズムによって命を絶たれることとなったのである。
挙国一致内閣の成立と歴史的意義
犬養首相の暗殺後、最後の元老であった西園寺公望は、政友会による単独内閣の継続を断念した。政友会内部の派閥抗争や軍部の強い反発を危惧した西園寺は、軍部を抑えるために海軍穏健派の長老である斎藤実(海軍大将)を後継首相に推挙した。これにより、軍部・官僚・政党勢力が均衡を保つ挙国一致内閣が成立し、8年間続いた「憲政の常道」に基づく政党内閣の時代は完全に崩壊した。
政党内閣の崩壊は、日本政治における議会制民主主義の挫折を意味した。政党が国政の主導権を失ったことで、軍部に対する文民統制(シビリアン・コントロール)の機能は事実上麻痺し、以後の日本は軍部の政治的発言力の肥大化とともに、ファシズム体制、そして太平洋戦争へと至る破滅的な道を歩み始める決定的な転換点となったのである。