広田弘毅

二・二六事件直後に組閣し、軍部大臣現役武官制の復活や「国策の基準」の画定を行った文官首相で、極東国際軍事裁判において死刑(絞首刑)となったのは誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
広田弘毅(Wikipedia)

広田弘毅 (ひろたこうき)

1878〜1948

【概説】
二・二六事件後の混乱期に首相に就任し、軍部の台頭に妥協しつつ政局の安定を図った外交官出身の政治家。軍部大臣現役武官制の復活や「国策の基準」の決定など、結果として軍部の政治的独走を決定づける政策に関与した。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、文官(非軍人)として唯一のA級戦犯として死刑に処された。

外交官としての台頭と「協調外交」の変質

広田弘毅は福岡県の石工の家に生まれ、右翼結社「玄洋社」の支援を受けながら東京帝国大学を卒業後、外務省に入省した。駐ソ大使などを経て、1933年に斎藤実内閣の外務大臣に就任。続く岡田啓介内閣でも外相を留任し、「協調外交」を掲げて対外関係の改善を模索した。しかし、満州事変以降の軍部の独走と国際的孤立化(国際連盟脱退など)の中で、その外交方針は次第に軍部の要求を追認するものへと変質していった。1935年には、中国に対して排日運動の取り締まりや満州国の実質的承認、共同防共などを迫る「広田三原則」を提示したが、中国側の反発を招き、日中関係の抜本的な改善には至らなかった。

広田内閣の発足と軍部大臣現役武官制の復活

1936年、皇道派青年将校によるクーデター未遂事件である二・二六事件が勃発すると、岡田内閣は総辞職に追い込まれた。事件後の混乱を収拾すべく、同年3月に広田が首相に指命された。しかし、組閣に際しては寺内寿一陸相ら軍部からの露骨な干渉を受け、自由主義的とみなされた閣僚候補の排除を余儀なくされた。さらに広田内閣は、軍部の圧力に屈する形で、1913年の山本権兵衛内閣時に「予備役・後備役」まで広げられていた軍部大臣現役武官制を復活させた。これにより、陸軍・海軍が大臣を推薦しない、あるいは現職大臣を引き揚げることによって、内閣を合法的に倒閣または組閣阻止することが可能となり、軍部が国政の主導権を握る決定的な契機となった。

「国策の基準」の決定と悲劇的な結末

広田内閣は、1936年8月に首相・外相・陸相・海相・蔵相の五相会議において、軍部の要望を取り入れた根本的国策である「国策の基準」を策定した。これは、大陸への進出(北進論)と南方資源地帯への進出(南進論)の双方を同時に進める方針であり、結果としてソ連と英米の両国を潜在的な敵対国と位置づけ、日本の軍事的な膨張政策を国家意思として決定づけるものとなった。さらに同年末には日独防共協定を締結し、後の日独伊三国同盟への道を開いた。翌1937年、帝国議会における「腹切り問答」を機に広田内閣は総辞職するが、直後に発足した第1次近衛文麿内閣では再び外相として入閣し、日中戦争(支那事変)の拡大期に外交の舵取りを行うこととなった。

敗戦後、広田は連合国軍による東京裁判(極東国際軍事裁判)において、共同謀議への参画や、日中戦争時(特に南京事件)における外相としての「不作為の罪(虐殺を防止する措置を怠った罪)」などを問われた。裁判中、広田は自らの弁明を一切行わず、寡黙を貫いた。1948年11月、25人の被告のうち7人に絞首刑の判決が下されたが、文官(政治家・外交官)として死刑判決を受けたのは広田ただ一人であった。同年12月23日、巣鴨プリズンにて刑が執行された。

広田弘毅 (人物叢書(新装版))

激動の昭和を翻弄されながらも、平和への信念を貫き通した外交官・政治家の生涯を克明に描き出した評伝。

広田弘毅: 秋霜の人

文官として頂点を極めながら軍部との対立に苦悩した稀代の政治家、その波乱に満ちた足跡を辿る重厚な一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1908年、日本の朝鮮における農業・土地開発や、日本人農民の移民推進などを目的として設立された国策会社は何か?
Q. 商家に住み込んで無給で雑用をこなしながら商売の基本を学んだ、最下級の少年奉公人を何と呼ぶか。
Q. 細川内閣の後を継いだが、社会党などが連立を離脱したため少数与党となり、約2ヶ月で総辞職した内閣は誰の内閣か?