斎藤実内閣

五・一五事件の後、元老西園寺公望の推薦により成立した、海軍大将を首班とする挙国一致内閣は誰の内閣か?
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★★★

【参考リンク】
齋藤内閣(Wikipedia)

斎藤実内閣 (さいとうまことないかく)

1932年〜1934年

【概説】
1932(昭和7)年の五・一五事件による犬養毅首相暗殺後、元老・西園寺公望の奏薦により成立した海軍大将・斎藤実を首班とする内閣。軍部、官僚、そして二大政党(立憲政友会・立憲民政党)から閣僚を迎えた挙国一致体制をとった。この内閣の成立により、大正デモクラシー以来続いていた「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣の時代は終焉を迎えた。

政党内閣の崩壊と「挙国一致」の選択

1932(昭和7)年5月15日、海軍急進派の青年将校らによって犬養毅首相が暗殺される五・一五事件が勃発した。与党であった立憲政友会は、後継総裁に就任した鈴木喜三郎を次期首相として推し、政党内閣の継続を求めた。しかし、最後の元老であった西園寺公望は、軍部の急進的な政治介入やファシズムへの傾斜を強く危惧していた。

西園寺は、政党の単独内閣ではもはや軍部を抑えきれないと判断し、後継首相として穏健派の海軍長老であり、朝鮮総督などの行政経験も豊かな斎藤実を奏薦した。こうして、1924年の加藤高明内閣から8年間にわたって続いた「憲政の常道」(衆議院の多数党の党首が内閣を組織する慣行)は崩壊し、軍人・官僚・政党が協力して難局に当たる挙国一致内閣が成立した。

内閣の構成と妥協的性格

斎藤実内閣は、軍部の圧力を緩和しつつ、議会政治の枠組みを辛うじて維持しようとする妥協の産物であった。閣僚には、大蔵大臣に高橋是清、文部大臣に鳩山一郎(ともに政友会)、内務大臣に山本達雄(民政党)など、政党人を積極的に起用した。一方で、陸軍大臣には急進的な皇道派の荒木貞夫を留任させるなど、軍部への配慮も余儀なくされた。

内政面では、昭和恐慌からの脱却を図るため、高橋是清蔵相の下で積極財政が展開された。赤字国債の発行によって軍事費を増額させるとともに、困窮する農村を救済するための時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)などの公共事業が行われた。しかし同時に、1933(昭和8)年には京都帝国大学の滝川幸辰教授を休職処分にする滝川事件が起きるなど、自由主義的な思想に対する弾圧も強まっていった。

満州国の承認と国際連盟脱退

外交面において、斎藤内閣は歴史的な重大決断を下すこととなった。1932年9月、内閣は日満議定書に調印し、関東軍が主導して建国した満州国を正式に承認した。これは軍部の既成事実を追認するものであり、国際社会との決定的な対立を招くものであった。

満州事変を調査していた国際連盟のリットン調査団は、日本の軍事行動を自衛権の発動とは認めず、満州国の承認を否認する報告書を提出した。1933(昭和8)年2月、国際連盟総会でこの報告書に基づく勧告案が可決されると、日本全権の松岡洋右らは議場を退席。翌3月、斎藤内閣は国際連盟からの脱退を正式に表明し、日本の国際的な孤立は決定的なものとなった。

帝人事件と内閣の瓦解

政党政治の命脈を保ちながら軍部との均衡を図っていた斎藤内閣であったが、1934(昭和9)年に発覚した帝人事件によって致命的な打撃を受けた。これは帝国人造絹糸(帝人)の株式売買をめぐり、政府高官や財界人が多数逮捕・起訴されるという大規模な汚職疑惑事件であった。

後に起訴された全員が無罪となるなど、この事件は枢密院副議長の平沼騏一郎ら右翼的な検察・司法官僚勢力による倒閣運動の側面が強かったとされる。しかし、この疑獄事件によって内閣は総辞職に追い込まれた。後継には同じく海軍大将の岡田啓介が就任し、挙国一致体制は継続された。斎藤実内閣の時代は、日本が政党政治から軍部主導の全体主義体制へと向かう、まさに決定的な過渡期であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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