滝川事件

1933年、京都帝国大学教授の刑法理論が無政府主義的であるとして文部省から休職処分を受け、法学部教官が辞表を提出して抗議した事件を何というか?
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【参考リンク】
滝川事件(Wikipedia)

滝川事件 (たきがわじけん)

1933年

【概説】
1933(昭和8)年、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の刑法理論が「赤化思想」であるとして、文部省が一方的に休職処分を下した思想弾圧事件。大学の自治と学問の自由に対する国家権力の重大な侵害であり、軍部台頭期のファシズム化を象徴する出来事である。

事件の背景と右翼による攻撃

1931(昭和6)年の満州事変以降、日本では軍部や右翼勢力が台頭し、社会全体に対する思想統制が急速に強化されていた。このような状況下で標的となったのが、京都帝国大学法学部教授・滝川幸辰(たきがわゆきとき)の刑法理論であった。滝川は犯罪の発生要因を個人の責任だけでなく社会環境にも求める自由主義的な刑法学を説き、また国家の刑罰権の乱用を戒める立場をとっていた。

しかし、こうした客観的・進歩的な理論は、国家主義が台頭する時代においては「無政府主義的」「マルクス主義的」であると曲解された。1932(昭和7)年、滝川が行ったトルストイの『復活』を題材とした講演や、彼の著書『刑法講義』『刑法読本』の内容に対し、右翼団体や国粋主義的な勢力が激しい非難を浴びせた。翌1933年初頭には、貴族院議員の菊池武夫らが議会で滝川の学説を「赤化思想」として激しく攻撃し、政府に対応を迫ったのである。

文部省の介入と強制的な休職処分

右翼や軍部からの圧力を受けた斎藤実内閣の鳩山一郎文部大臣は、京都帝国大学総長の小西重直に対し、滝川の罷免を要求した。しかし、小西総長や京大法学部教授会は、大学教員の進退は教授会の同意に基づくという「大学の自治」の原則を盾に、この不当な要求を拒絶した。

これに対し文部省は1933年5月、教授会の同意を得ないまま、文官分限令を強行適用して滝川を一方的に休職処分とした。これは、学問の内容そのものを国家権力が直接審査し、帝国大学の人事に強権を発動したという点で、かつてない重大な事態であった。

京大法学部の抵抗と挫折

この文部省の強硬措置に対し、京都帝国大学法学部は猛反発した。学問の自由と大学の自治を守るため、佐々木惣一(憲法学)や末川博(民法学)をはじめとする法学部の全専任教官(教授・助教授・専任講師)が抗議の辞表を提出し、学生たちもこれに呼応してストライキなどの激しい抗議運動(京大事件)を展開した。この動きは他大学や知識人の間にも波及し、大きな社会問題となった。

しかし、政府の態度は硬化し、学生運動は警察によって徹底的に弾圧された。総長の小西は辞任に追い込まれ、最終的に文部省の妥協工作などにより、辞表を撤回して大学に留まる教官と、辞職を貫く教官とに分裂した。結果として、佐々木惣一、末川博、宮本英雄ら有力教授を含む数名が大学を去ることになり、教官・学生が一体となった抵抗運動は挫折に終わった。

歴史的意義とファシズム体制への道標

滝川事件は、単なる一大学の内紛ではなく、国家が「学問の自由」と「大学の自治」を公然と蹂躙した歴史的転換点である。1920年代の治安維持法制定以降、主に共産主義思想に向けられていた弾圧の刃が、国家主義にそぐわない自由主義的・民主主義的な学問一般にまで向けられるようになったことを明確に示していた。

この事件を契機に、知識人や大学における自由な言論・研究活動は急速に萎縮していく。その後、1935(昭和10)年の天皇機関説事件(美濃部達吉への攻撃)や、1940(昭和15)年の津田左右吉の著作発禁事件へと連なる、戦前日本のファシズム体制・思想統制の完成過程における極めて重要な里程標として位置づけられている。

滝川事件 (岩波現代文庫 学術 136)

学問の自由と大学の自治が国家権力に蹂躙された弾圧の構図を、資料と証言から浮き彫りにする歴史的教訓の書。

滝川教授事件―京大自治闘争史 (1933年)

当時の京大生による抵抗の記録を通じ、自由主義学問の砦が崩れ去る瞬間の緊迫と憤怒を克明に刻んだ魂の証言集。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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