滝川幸辰 (たきかわ ゆきとき)
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した刑法学者。自身の著書がマルクス主義的だとして文部大臣から休職処分を受けた京都帝国大学の法学教授。この出来事は「滝川事件」として知られ、戦前の日本における思想統制と大学の自治侵害の象徴となった。
刑法学者としての歩みと進歩的学説
滝川幸辰は1891年(明治24年)に生まれ、京都帝国大学法科大学を卒業後、同大学の教授に就任した。彼の刑法理論は、犯罪を単なる個人の道義的責任に帰するのではなく、社会的な環境や経済的な背景も考慮に入れるという進歩的で自由主義的なものであった。
とくに著書である『刑法読本』や『刑法講義』では、国家権力による刑罰の乱用を戒め、人権を擁護する立場をとっていた。しかし、こうした彼の学説や思想に共鳴するような態度は、国家主義が台頭しつつあった当時の日本において、右翼陣営や軍部から「国体に反する赤化思想(マルクス主義)」として敵視される要因となっていった。
滝川事件(京大事件)の勃発
1933年(昭和8年)、当時の文部大臣であった鳩山一郎は、滝川の著書『刑法読本』などを発禁処分とし、彼を休職処分にするよう京都帝国大学総長の小西重直に要求した。小西総長は「大学の自治」と「学問の自由」を守るためにこれを拒絶したが、文部省は文官分限令を適用して一方的に滝川の休職処分を強行した。これが滝川事件(京大事件)である。
この強権的な介入に対し、京都帝大の法学部教授・助教授・講師は全員が辞表を提出して猛烈に抗議した。学生たちもこれに呼応してストライキを行い、他大学の学生や知識人も支持を表明するなど大きな社会問題となった。しかし、最終的に文部省の強硬姿勢は崩れず、滝川をはじめとする佐々木惣一などの教官たちは大学を去ることを余儀なくされた。
ファシズム化と同時代の思想統制
滝川事件が起きた1933年は、満州事変(1931年)や五・一五事件(1932年)を経て、日本が国際連盟を脱退し、軍国主義・ファシズム体制へと急速に傾斜していく時期であった。
1925年の治安維持法制定以降、1928年の三・一五事件などで共産党員やマルクス主義者が徹底的に弾圧されていたが、滝川事件はその標的が共産主義者のみならず、自由主義的な学者や知識人へと拡大したことを如実に示している。1935年の天皇機関説事件(美濃部達吉への弾圧)や、1937年の矢内原事件へと続く思想統制・学問の自由の圧殺という暗い時代への入り口において、滝川事件は日本の大学の自治が国家権力によって明確に蹂躙された重大な転換点として位置づけられる。
戦後の復帰と京大総長としての晩年
大学を追われた後、滝川は立命館大学などで教鞭をとる傍ら、在野の法学者として活動を続けた。第二次世界大戦における日本の敗戦後、GHQによる民主化政策のもとで「学問の自由」が回復されると、1946年(昭和21年)に滝川は京都大学法学部に復帰を果たした。
その後、法学部長を経て1953年(昭和28年)から1957年(昭和32年)にかけては京都大学総長を務め上げた。戦後の総長時代には、過激化する学生運動に対して厳格な態度で臨んだため、戦前の「自由の闘士」としてのイメージとのギャップが議論を呼ぶこともあったが、日本の刑法学の発展と、戦前における学問の自由擁護の象徴としての彼の歴史的意義は極めて大きい。