相沢三郎

真崎甚三郎教育総監の更迭に憤激し、陸軍省内で永田鉄山軍務局長を白昼斬殺した皇道派の陸軍中佐は誰か?
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【参考リンク】
相沢三郎(Wikipedia)

相沢三郎 (あいざわさぶろう)

1889〜1936

【概説】
昭和初期の陸軍中佐。陸軍内部の派閥抗争において「皇道派」に属し、対立する「統制派」の中心人物であった永田鉄山軍務局長を刺殺した人物(相沢事件)。この事件は陸軍内の対立を決定的なものとし、翌年の二・二六事件を誘発する直接的な契機となった。

陸軍内部の派閥対立と相沢の思想

1930年代の日本陸軍内では、天皇親政による国家改造(昭和維新)を掲げる青年将校主導の皇道派と、高度国防国家の建設に向けて軍主導の総力戦体制構築を目指す中堅幕僚主導の統制派が激しく対立していた。相沢三郎は、皇道派の精神的指導者であった真崎甚三郎大将らを熱烈に支持する中堅将校の一人であった。1935年(昭和10年)7月、統制派の主導によって真崎教育総監が更迭された(教育総監更迭事件)。これに激昂した相沢は、一連の排斥工作を主導したとされる統制派の中心人物、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将の暗殺を決意するに至った。

相沢事件の勃発と二・二六事件への影響

1935年8月12日、相沢は陸軍省の軍務局長室に乱入し、永田鉄山を白昼堂々斬殺した(相沢事件)。相沢の軍法会議は1936年1月から開始され、皇道派の将校たちはこれを「天皇の軍隊」を私物化する統制派への義憤として正当化し、公判は皇道派の主張を宣伝する場と化した。この公判中に、相沢を支持し、かつ急進的な国家改造を叫ぶ青年将校たちの焦燥感が極限に達し、同年2月26日の二・二六事件の勃発へとつながった。事件後、軍部内の主導権を完全に掌握した統制派のもとで裁判が迅速化され、相沢は死刑判決を受け、同年7月に銃殺刑に処された。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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