イタリア(第一次世界大戦後)
【概説】
第一次世界大戦後、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がいち早く一党独裁体制を築き上げたヨーロッパの国家。戦勝国でありながら講和への不満や深刻な経済危機に見舞われ、その社会的混乱を背景に全体主義(ファシズム)が台頭した。1930年代には対外膨張政策に転じて国際連盟を脱退し、満州事変以降国際社会で孤立を深めていた日本やナチス・ドイツと結びついて枢軸国を形成するなど、昭和戦前・戦中期の日本の動向に多大な影響を与えた。
「傷ついた勝利」とファシスト党の台頭
イタリアは第一次世界大戦に協商国(戦勝国)側として参戦したものの、パリ講和会議においてロンドン密約で約束されていた「未回収のイタリア」の完全な獲得を果たすことができなかった。この結果は国内で「傷ついた勝利」と呼ばれ、強い民族主義的鬱屈を生み出した。さらに戦後は深刻なインフレーションと失業者の増大に見舞われ、ロシア革命の影響を受けた労働者や農民によるストライキや暴動が激化する「赤い二年間」と呼ばれる無政府状態に陥った。
この混乱の中、共産主義の脅威に怯える地主や資本家、中間層の支持を集めたのが、ベニート・ムッソリーニが結成した「戦闘者ファッシ(のちのファシスト党)」であった。彼らは退役軍人らを中心とした黒シャツ隊を組織して社会主義者の運動を暴力的に弾圧し、1922年のローマ進軍によって国王から組閣の大命を受け、政権を掌握した。
ファシズム体制の確立
政権に就いたムッソリーニは、段階的に議会政治を解体して一党独裁体制を確立していった。野党や独立した労働組合は非合法化され、秘密警察による徹底した反対派の弾圧が行われた。また、資本家と労働者を国家の統制下に置く「協調組合(コーポラティズム)国家」の建設が推進された。
1929年には、19世紀のイタリア統一以来対立関係にあったローマ教皇庁とラテラン条約を結んで和解し、バチカン市国を独立させることでカトリック教徒の支持を取り付け、国内における独裁基盤を盤石なものとした。
日本史における意義と日独伊三国同盟への道
第一次世界大戦後のイタリアにおけるファシズムの台頭は、同時代の日本にも多大な思想的・政治的影響を与えた。大正デモクラシーを経て成立した政党政治が、汚職や昭和恐慌への対応の遅れによって国民の失望を買う中、日本の右翼運動家や急進的な国家主義者、一部の軍部青年将校らは、強力な指導力で国家改造を推し進めるムッソリーニを一種のモデルとして称賛した。また、国家総動員体制の構築を目指す「革新官僚」たちにとっても、イタリアの統制経済やコーポラティズムは重要な研究対象となった。
外交面では、1931年の満州事変とその後の国際連盟脱退によって国際社会から孤立していた日本にとって、イタリアは極めて重要な提携相手となった。イタリアも1935年のエチオピア侵攻を機に国際連盟から経済制裁を受けて孤立を深めており、同じ「持たざる国」としての利害が一致したのである。1937年には日独防共協定にイタリアが参加して日独伊防共協定となり、さらに1940年には日独伊三国軍事同盟が締結され、第二次世界大戦における「枢軸国」陣営が正式に形成された。
第二次世界大戦とファシズムの崩壊
1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、イタリアは当初非参戦の立場をとったが、ドイツ軍の快進撃を見て1940年6月にイギリス・フランスに対して宣戦布告を行った。しかし、イタリア軍は軍備不足や兵站の脆弱さからギリシャや北アフリカ戦線で敗退を重ね、ドイツ軍の救援を仰がざるを得なくなった。
1943年7月に連合軍がシチリア島に上陸すると、ファシスト大評議会でムッソリーニの解任が可決され、彼は国王によって逮捕・監禁された。後継のバドリオ政権は同年9月に連合国に無条件降伏し、日本の強力な同盟国であったイタリアは枢軸国からいち早く脱落した。その後、ドイツ軍に救出されたムッソリーニは北イタリアで「イタリア社会共和国」を樹立したが、1945年4月にパルチザンによって捕らえられ処刑され、イタリアにおけるファシズム体制は完全に崩壊した。